伝統的評価観とその苦痛の表現/「ロストワンの号哭」「廻廻奇譚」「ぜんぶあんたのせい」

小学生時代には12chのアニメに浸り、ボカロ黎明期にはボカロ曲を追い、カラオケで歌いまくっていた学生時代を経験してきた身として、学校教育関係者にはぜひサブカルチャー楽曲を学校のなかで児童生徒や教師が感じている「全体論的苦痛」の表現として一度聞いてみてほしいと願っている。

「全体論的苦痛」(holistic pain)というのは、生理的な苦痛だけでなく、生きる意味の喪失などのいわば哲学的な苦痛も含む、痛みに対する包括的な概念のことで、要素としては身体的、心理的、社会的、精神的苦痛からなるとされる。全体論的教育(holistic education)を目的とする教育は戦前からの歴史があるけれど、この苦痛の存在について意識しながら全体論的教育について議論している人はあまり見かけない(上智でお世話になった、宗教教育の専門家の方々の場合に、むしろ見かける)。

特に昨今の自己責任論を背景に強化されている、相手の存在価値を値踏みしたりランク付けしたりするためにテストの合否をつけたりテストスコアを競わせたりするような「伝統的評価観」が、どれほどの苦痛を児童生徒に与えているかを歌う楽曲はそれこそ80年代で言えば尾崎豊の楽曲群などにも顕著だが、ここにあげたNeru「ロストワンの号哭」や呪術廻戦のOPとしても著名なEve「廻廻奇譚」にも歌詞を読めばその「苦痛」や「呪い」にいかに現代的に抗おうとしているかは、一聴瞭然だと思う。

また、Civilian「ぜんぶあんたのせい」はこの全体論的な苦痛を若手教師の視点から歌ってくれている気がして、勝手に共感してしまった。念のために書いておくと、これらの楽曲をそういう視点からだけ切り取りたいわけではない。これらは単純に桐田が好きな楽曲群であって、純粋にめっちゃ格好いいと思ってカラオケで歌いたいとも思っている一方で、ここに書いたようなことも感じながら聴いているということなのだ。

自分も高校時代に自己責任論を振りかざされてかなり生きづらかったし怖かったけれど、あの時よりもいっそう真綿で首を絞めてくるような世間になってきている。サブカルチャーからは苦痛の原因として語られるほかない教育からできることがあると願いたい。総合・探究はその意味でも児童生徒も教師も自分の生きる筋を追求し自分の「声」をあげられる機会にしたい、してほしい。

学校の中に渦巻く苦しみと痛み

子どもも大人も「呪い」を自覚することは難しい(呪術廻戦0参照)

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