【業績】STEAM教育の教材「PICK UP STEAM ドローンで動画をつくろう」の原案制作を担当いたしました

株式会社トモノカイさんとのSTEAM教育の教材、”PICK UP STEAM ドローンで動画をつくろう”で原案の制作を担当いたしました。

当初は探究カリキュラムの単元構想の企画くらいを担当する予定だったのですが、次第に桐田の妄想が爆発して、結果的に”Pick up Steam”というシリーズのタイトル、物語の設定、ストーリー、セリフ、キャラクターデザイン、コラムの原案、探究カリキュラムとしての中核概念と探究の流れのデザインの原案を起案しました。

桐田の悪い癖で、会議中に頼まれてもいないアイデアを拡散的にぽんぽん出すのですけれど、「流石に受けいられないだろうな」と思っていたら何とGOサインをいただき、ストーリー原案やキャラ原案がプロの方の手で次第に形になっていくさまを眺めることができてとっても幸福でした。

幼い頃から漫画読み、アニメ好きで、声優さんへの憧れから演劇に興味を持って平田オリザさんの戯曲に親しみ、院で構成主義の指導教官に学びナラティブを研究した人間としては、「ジャスパープロジェクトのように知識を活用する場面を設けつつ、社会とのつながりがあり、読み物として面白く、語り合いが生じるような媒体にしたい」と思って、頑張ってみました。

その成果がどうなっているかは生徒さんたちに委ねるほかはありませんが、桐田的にはSTEAMは日本の漫画(manga)・アニメ(anime)・ゲーム(game)・ネット(net)の想像力とめっちゃ相性いいと思うという桐田の妄想コンセプト、題して”MAG-NET STEAM”の一発目ができたという感慨もありつつ、自分の考えたキャラクターが喋る漫画を読むことができるという漫画読み的にはかなりこれ以上ないぐらいの悦びに浸っております。

自分にSTEAMの企画を依頼してくださった 後藤 友洋 さん、自分の無茶なプロットをきちんとプロの視点から監修してくださった 船津 宏樹 さん、 本当にありがとうございました! 御礼申し上げます。

論理的なフィードバックは感情を紐解く接続詞を伴う

「えっ?」と思うくらいフィードバックが荒い人(具体的な提案がない、表現への個人的な感情的反応しかない、こういうものしか受け入れられないものだという根拠が明示されず、抽象的な反駁しかない、etc)が、アートや教育、学問や仕事、政治の現場に立たれていることの絶望感たるや正直凄まじいものがある。

原義に立ち帰るなら、フィードバックは結果に対する反応の「送り返し」だけを意味するのではない。その目的は複雑な状況に対応するための制御の選択肢を増やすことを通じて行動の微調整を可能にしていく「振り返り」にある。

具体的には、自分が相手の作品や行動に感じた優れた点と課題点などの見立てを伝えるにあたって、そのように感じられた自分なりの価値観や世界観といった価値基準について言語化しておき、この自分の見立ての前提となる基準に相手も同意することができるものであるかどうかを確かめた上で、相手がとりうる選択肢と行動の調整方法と思われるものを提示し、そこから次善策を協議して次の行動方針をすり合わせ、実際に行動を調整するところまでがフィードバックの1過程、1サイクルだ。

よって、端的にいえば勝手にやってみさせて「これはだめ」「なるべくこうして」「これは微妙」「これは違う」とだけ送り返すのは、評価の基準も明示せず自分の暗黙理の基準に従えというメッセージを伝えているだけで、ネグレクトにすらあたるものであり、少なく見積もっても単なるリアクション以上のものではない。

しかもたちの悪いことに、そうした方のフィードバックの文面は一見’論理的’に見える体裁を整えているのだが、よく見れば接続詞がなかったり、助詞を多用しすぎていたりして、文章相互に密接な関連性がなく論理の体を成していない。それなのに個人の感情的な反応とは思われなさそうな形式的な学術用語で返すことを「ロジカル」かつ適切な「フィードバック」だと捉えている大人の多さに戦慄する。。

子どもへの金融教育や探究学習以前に、そうした子どもたちの学びを受け取る立場になる成人たち自身が、成人学習として論理について探究していく経験こそ必要になるものなのではないか、以下の文献をもとにNPOや企業人向けに文章教室を開きたいとすら思ってしまった。

論理は世間で言われるような冷たい非人間的なものではなく、むしろ複雑な人間の複雑さをありのまま捉えるために微細な感覚や感情の差異を言葉にして、その差異に関わる幾重もの文脈をひとつひとつ解して「文」に翻訳し、接続詞などを用いて原型をとどめられるように接続し直したものを通じて、当の複雑な状況を他者が辿り直し自他の相互理解を深めていくことを可能にするためのものだから。

石原 浩一, 泰山 裕『フィードバックと振り返りが学習者の認知欲求に及ぼす影響の検討』教育工学会論文誌

石黒圭『文章は接続詞で決まる』光文社新書

みるものが変わる、悠久の時間を生きる

先日、カリキュラム工作室のフォローアップ懇親会(?)を行った。年度初めの忙しい折にもかかわらず来てくださった先生たちには頭が上がらないし、「このために時間を調整してきました」と言ってくださった某先生の表情の輝きには目が眩むほどだった。

その先生が、この工作室を経て資質能力などのテーマを中心に読むものが変わってきたし、楽しい学校にしたいと思うと学校のなかで観るところが変わってきたという話をしてくださった。「でもまだ、具体的に何かを作れているかというと、そうではないんですが」と謙遜いただいたのだけれど、何かを具体化しなければと焦ることはないですし、そのみるものの変化がとても嬉しいことですし、大切なことだと思いますと私見を伝えさせていただいた。

それに、みるものが変わると、コミュニケーションがきっと変わってきますから、大丈夫ですよとお伝えした。すると、「確かに、コミュニケーションは変わってきた自覚はあります。楽しい学校にしたいと伝えていたら、五、六年生の子たちが委員会活動をしているのですけど、いつもと同じ活動しかしていないのできっと退屈していると先生たちからお話をいただけて」と、委員会活動が楽しい活動になるにはどうしたらという話し合いが先生たちとの間で生まれてきたことについて共有いただけた。

もうこの話をいただけただけでも、カリキュラム工作室を実施してよかったと思えた。こんなふうに真摯に学校現場のなかで、喜びや楽しさという肯定的な感情を軸にする学校運営の視点として見つめ続けることの大変さを自覚されながらも、それでも見つめようとする胆力の深さを感じられるとき、大袈裟でなく人間性への信頼が私の中で維持される。

学校教育では、授業論であれ教育論であれ、なんらかの方法論や習慣化した方法論についての話がしばしば先に出てきてしまう。どんな論であっても具体化できるかどうかが実践の分水嶺だと考えられてもしまう。けれど、具体化するというからには、いまここで起きていることを見つめる冷静な視点と、今ここで起きていることをどんなふうにどんな方向性で進めていきたいかという未来の視点がしっかり定められていないと、具体化できたとしても短期的な変化を繰り返すのに終始して、成果も長期的に評価できなくなるのでみな疲弊してしまう。

疲弊すればコミュニケーションも粗雑になるし、相談なんていう冗長なコミュニケーションが図られることはなくなり、自分の仕事は終わったという連絡と報告だけがなされるような冷たい職場環境、学習環境が出来上がってしまう。

けれど、自分がまなざすものが変わってくると、身の回りの出来事のなかで取り上げるものが変わり、次第に身近な人々とのコミュニケーションがゆっくりと変わっていくことができる。子どもたちの資質能力、それが自然に発揮される好奇心の発露の瞬間、つまり子どもたちがワクワクする瞬間を見ることに注力しようと思えば、日々のちょっとした振る舞い、ちょっとした言葉、ちょっとしたこだわりの中にもその好奇の種は見つかる。

ワクワクするところが見つかると、人は不思議なもので誰かに伝えたくなる。それが自然なコミュニケーションだし、そうしたコミュニケーションの中でこそ「相談」という入り口も出口も明確でない冗長なコミュニケーションが生まれる余白も確保できる。

「あ、そう言えばさ」と連想から始まり、「どうしたら良いかなあ」「いや、何に困ってるのかもわからないんだけど」というような、話のゴールも入り口も明確でないけれど、だからこそゴールと入り口を互いに探り合いながら創り合うことができる(=相談できる)ための、冗長なコミュニケーションができる場の大切さは、言いすぎても言い過ぎることがないくらいだと個人的には感じている。

なぜならこうした冗長なコミュニケーションには、コミュニケーションすること自体に意味があるからだ。正確に言い換えれば、互いの信頼関係の構築という意味がある。しかもこの冗長なコミュニケーションを通じて互いの信頼関係を作りながら、相手の困りごとなどを尋ねていくコミュニケーションを得意とする存在が、実は子どもたちだということに気づくと、このコミュニケーションは教育方法としての意味すら獲得する。

子どもたちは冗長さの中で相手のこだわりや相手の困りごとに耳を立てている。保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校などの教育機関のなかだけでなく、公園や放課後の遊びのなかでの日々の子どもたちの言葉に耳を傾けると、ほとんどがこの冗長なコミュニケーションのなかで困りごとや悩みごとの共有が行われていることに気づかされる。

というより、私たち大人の方がそうした悩みごとや困りごとを一手に引き受ける場を作って「窓口化」したり、相手の気持ちを聞き尋ねあうコミュニケーションを「定型化」してしまいがちなのだ。しかし窓口化してしまうとその窓口に近寄る人へのスティグマが築かれてしまうという逆説と、定型化され手続き化されたコミュニケーションが苦手な子どもたちにとって、この窓口化と定型化という2つの打ち手はあまり良策とは言い難いと思われる。

奈須さんがよく信濃の学校に訪れた際に独り言のようにいう言葉の中に、「悠久の時間」という言葉がある。日々のカリキュラムも時間割も子どもたちとともに一緒に、焦らず、落ち着いていて、リラックした状態で、ゴールもスタートも自分たちで決められる冗長さの高い生活時間のなかで物事を相談して決めていく時間感覚が、そこには底流のようにいつもある。

この時間感覚こそが、コミュニケーションに焦りや苛立ちを無くしていくために必要なのだとさまざまな組織で働いた身としても感じている。端的に言えば冗長さのない組織は、目的から逆算した工程を満たすために人々を道具として扱うので、相手の都合は二の次、三の次になる。工程を満たす意識が納期が近づいているのに満たされない工程への焦りにつながり、工程の進み行きを阻害しているものとして人を見なすことに繋がり、立場の強いものの苛立ちがそのまま立場の弱いものへと伝わり、結果苛立ちまぎれの粗雑なコミュニケーションが雪崩を打つように拡がっていく。

この負の循環を防ぐためにも、人間という大切なものを育み続ける「悠久の時間」を生きようとすることが必要で、その時間感覚を得るためには人間のなかのどんな資質能力を(平たく言えばどんな人間性を)大切なものとして見るかを定める視点の設置が必要になってくる。その大切な人間性を守り育むために身の回りの時間を融通するのであって、時間を守るために身の回りで育まれようとしている大切なものやそれらに触れる機会を削るのではない。いわんや人の心を削るような時間感覚はあってはならない。

カリキュラムデザインもマネジメントも、時間の融通と評価のサイクル回しが目的なのではなくて、大切なものを焦らず怠けず自ずから育み合うことができる時間感覚と、そうした時間感覚を生み出す日々の些細なコミュニケーションの積み重ね、そしてそうした些細なコミュニケーションを許しあえる文化の醸成のために行うものなのだということを、私はさまざまな学校で学んできたように思う。そのお裾分けと洗練の機会を少しでも設けていくことで、焦らないノルマ的でない学校・学級運営によって次第に相談の文化が生まれ、互いに勤務時間も融通が効かせられるようになるということを伝えながら、長時間労働が慢性化している学校文化を微力でも是正していけるようなお手伝いができたらと思う。

欲望論と共同幻想論

現象学についての講座を開くにあたって、ルーヴァン大学でフッサール文庫の管理もされていたSebastian Luftさんの”Subjectivity and Lifeworld in Transcendental Phenomenology”を牛歩の歩みで読んでいるなか、日本で言えば榊原さんの『フッサール現象学の生成』のような、フッサールの草稿や未訳著作をたどりながらフッサールの思考を辿ろうという気概と挑戦を感じられる本をゆっくりじっくり読む日々を過ごしたいなと感じている、今日この頃。

某お世話になっている方からご質問があったので念の為、竹田青嗣さんの『欲望論』について、現時点での自分の所感をまとめておく。

竹田さんはご本人も悩まれていたらしいが、個人的には彼は自身に多大な影響を与えた吉本隆明さんの『共同幻想論』を無自覚に反復し続けているのではないかと思っている。実際、信念対立といった造語も、エロス、欲望、自由、社会契約、相互承認といった既存の学術概念の彼なりの解釈も、どこからその解釈が出てくるのだろうと首を傾げることが多い場面でも、共同幻想の言い換えと言う補助線を引くとスッとわかりやすくなる。

そのいみで既訳著作の中にあるフロイトのタブー概念に、同じく既訳著作の中にあるヘーゲルの方法を接木して造語を作っていった吉本さんと、竹田さんは同様に既訳著作のなかのニーチェの力概念に、既訳著作の中のフッサールの方法を接木して造語を作っていった竹田さんは論じ方もとても似ているように思われる。併読するとおそらくその印象はずっと高まるかと思うので、ご興味のある方は是非。

両者をよく見れば、日本の状況と合わせ鏡の自身の境遇を何とか言葉にしようと努力した人と言えるかもしれないけれど、公正を期してあえて言えば、悪い点として海外の概念をもとにしつつ独自の造語を新たに作り、自分がその学者の概念を全て理解したと感じて、海外に打って出るのではなく国内論壇の誰かの思想を乗り越えるために用いがちなところも似てしまっている。

竹田さんが欲望論で提起したという情動所与も、厳密にいえばすでにフッサールによって『イデーン』でヒュレーとして概念化はされている。それでもこの概念が大切だというには既存の一次文献、二次文献の参照と概念相互の比較と検証が大切になると思うのだけれど、少なくともご本人の著作の中にはそれもない。

学として探究する以上は、草稿研究をたどる欲求も必要も出てくると思うのだけれど、草稿研究を辿った形跡も見えない。弟子筋の岩内くんの仕事に竹田さんの超越論的現象学と既存の現象学や現代現象学はここが違うという区別の設定はあるのだけれど、竹田さんなりに解釈されたフッサールやハイデガーと実像との境を曖昧にしている状態でもなお竹田さんの論を現象学と呼称する必然性はどこにあるのかわからない(そのいみでは青学にいらっしゃる関根さんの『レヴィナスと現れないものの現象学──フッサール・ハイデガー・デリダと共に反して』のような精緻な研究を期待したい)。

むしろ欲望論は現象学というよりおそらく共同幻想論と呼んだほうが、ご本人の批評家としての系譜的にも実際の方法論的にも正しいかもしない、と個人的には感じている。

フッサールも、まるでカプセルの中に入って外界の感覚データまで自己の確信様相に変えてしまう態度を超越論的主観とは呼んでいない。竹田さんの欲望相関から真理の相対性を導きつつ共通了解や禁止を経て社会的な規範の相互承認へと積み上げていく論じ方は、ボルツァーノ由来の真理自体という概念を大切にしたフッサールよりむしろ真理をそうした確信=幻想に切り替えてその共同性(共通了解)を自分なりにブロックのように積み上げて社会全体の規範を論じる吉本さん的な方法論と似ている。

それを思うと、竹田さんがしばしば言われるように、フッサールの『現象学の理念』を読んで「フッサールがわかった!」と感じられたそのとき、吉本さんの共同幻想論を軸に解釈されたフッサール像が出来上がっていたんじゃないか、フッサールを通して吉本隆明を見ていたのではないだろうかと、考えてしまう。

ただ、そこでの「わかった!」を通すべく、すでにフッサール研究として積み上がってきたアカデミックな国内外の先行研究を引用して比較研究を行っていかない理由も、現象学とは違う道筋を歩んでいる自分の思考を現象学と呼ぶ理由も、アカデミックへのコンプレックスあるいはルサンチマンだったとしたら、それは国外から見ても国内から見ても、竹田さんを中心とする権威のテーブルでの信念補強型の思考にご本人の意思とは別に陥ってしまっていると映るのでは…と、草葉の陰からひっそり心配している。

竹田さんとその弟子筋の皆さんと仲の良かった加藤典洋さんもダイアモンド(どんな答えが来ても負けないことの比喩)であってはいけないと忠告されていたし、フッサールも小銭で払うこと(小さな問題を大きな原理で解決せず小さな回答を出し続けること)を美徳とするようにといっていたことを思うと複雑な気持ちでいるというのが、正直なところ。

教育現象学と、フッサール研究の拡がり

教育現象学教育における現象学的アプローチの広がりをドイツ、オランダ、アメリカそれぞれでみていくと様々なバリエーションがあり、それらを踏まえて自身のマキシン・グリーン研究につなげるにもやはり現象学、特にフッサール現象学を軸にしないとどの文献をどのように理解してバリエーションが展開されているのかを理解することが難しいと感じている。

いわゆる質的研究での現象学研究や実験現象学についてのサーベイはそれほど苦労を感じないのだが、教育思想として現象学を用いている場合に非常に困難を感じる。と同時に、倫理学、美学、道徳哲学、学問論、知識論、存在論、意味論、価値論、他者論、学習論、衝動論、情動論、規範論、教師論、子ども論などなど、さまざまなアプローチを見せてくれる魅力もあるのがなんとも厄介なところである。

そのなかで個人的に下手の横好き的に読むことを好んでいる著作がフッサールのそれで、遅まきながら原著も辿々しくも読み始めた。一部で「フッサール現象学では価値の問題をうまく扱えない」「術語がない」という議論があり教育界隈にも共有されてきているけれど、興味のある方はぜひとりあえず以下の著作群を読んでフッサール研究について自分も勉強中なので一緒に勉強しましょう、と伝えたい。

フッサールの既刊著作にあたる時間の余裕はないという方は、まずは『ワードマップ 現代現象学』を勧めたい。フッサールの価値覚としての感情に基づく価値論、そのほか現象学者たちの価値論についての議論が章を割いて展開されている点がありがたい。

  • 植村玄輝・八重樫徹・吉川孝(編著)『現代現象学 経験から始める哲学入門』新曜社、二〇一七年。

また、自分もまだ全部深くは読み込めていないのだけど、フッサールの倫理学、価値論、衝動論、情動論については以下の著作を。

  • 吉川孝『フッサールの倫理学:生き方の探究』知泉書館、二〇一一年。
  • 稲垣諭『衝動の現象学:フッサール現象学における衝動および感情の位置づけ』知泉書館、二〇一七年。
  • 八重樫徹『フッサールにおける価値と実践 善さはいかにして構成されるのか』水声社、二〇一七年。
  • ナミン・リー(著)中村拓也(訳)『本能の現象学』晃洋書房、二〇一七年。

吉川さんの著作は発展史的な整理でじっくりと追っていくことができ、フッサール自身がどのように「生の価値」をめぐって「職業的な生」から「倫理的生」を目掛けて自分自身の学究を行っていたかがしみじみ伝わってくるような印象。博士課程の頃に読んで、それまで自分の感じていたどことなく機械的なフッサール像がとても人間臭くなってきて、母子の愛やあたかも不死であるかのようにして目的を持って生きること(ガンジーのよう)について論じていたところにも衝撃を覚えたのを記憶している。

八重樫さんの著作はこの初期から晩年までの展開を視野に入れながら、主にフッサールの価値論に焦点を当てつつフッサールの師匠であるブレンターノの価値論との差異からフッサール自身の道徳哲学について体系的に吟味できる。感情と評価作用の関係性から、使命や愛(触発)による価値の把握に移り、次第に「よく生きること」を目掛けつつも実際には揺れ動きや幻滅、死を経験せざるを得ない有限な人生を生きる人間にとって、人生の無意味さが問題になる現実の事態について一個一個問いを深めていくあたりがとても丁寧で、本のサイズ感も手伝ってかまるで良質な中編小説を読んでいるかのよう。

「何かを、あるいは誰かを、一貫性をもって愛している人にとって、彼が愛している当のものは、他人にとっては取るに足らないものであっても、現実に愛するに値するものなのである。他の種類の価値と同じく、ここでも、主体に相対的であることと客観的であることが両立する。
この意味で「愛するに値するもの」をもち、それにかかわる活動に打ち込んでいるとき、人は「そんなことをして意味があるのか」という問いに対して、「ある」と断言することができる。このとき、その人の人生は実際に生きるに値するものになっているとはいえないだろうか。自分にとって本当に愛すべきものをもつことで、人は永遠の相のもとでは無意味な人生を、生きるに値するものにすることができるのではないだろうか。」(八重樫, pp.253-4, 強調箇所は原文では傍点)

また、リーさんの著作はすでに93年にフッサール草稿の丹念な研究から衝動志向性、本能志向性の議論がフッサールの静態的現象学から発生的現象学への移行にとって重要だったことを発展史的に明かしているし、稲垣さんの著作はこの議論を参考にしながらフッサール現象学の意識概念の展開それぞれにおける感情・衝動の位置付けについて体系立ててくれている。

個人的にはいわゆる志向(教育学的に身近なトピックで言えば思考・判断・表現)とその充実が、乳幼児期の「やみくもに身体が動くことの喜び」から「手足を動かす際の物体の運動における喜び」へ、つまり感情の発露が伴う身体運動への「努力」とその「充足」にと考えられていたという辺りなどは(189頁)、ホワイトのコンピテンスの議論との親近性もあり教育関係者は「おお!」と思わずにいられないだろう。

「生とは、志向と充実の多様な形式および内実における努力である。つまり、充実においては最も広義の意味で快感が、非充実においては快感へと向かう傾向が、純粋に欲情する努力として、もしくは充実的現実化において解放される努力として〔存在し〕、それらは快感がそれ自身のうちで解放される生の形式の現実化プロセスにおいて成し遂げられる」(稲垣, 2017 p. 189から孫引き)

フッサールの『イデーン』で展開した超越論的現象学と、『論研』時の記述的心理学としての現象学の理解には以下の2つの著作を。個人的には佐藤さんの著作で議論されていた観念論W,Sの分類を通じてフッサール超越論の理解がとても進んだし、植村さんの著作はボルツァーノの真理自体の考え方と志向的体験についての理解が進んだ。と言ってもそもそもこの認識で合っているのかまだまだ心もとない。フッサール研究会や植村さんらが世話人として活動されている瀬戸内哲学会のワークショップがあればすぐオンラインで参加して勉強している次第。

  • 佐藤駿『フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学:『論理学研究』から『イデーン』まで』東北大学出版会、二〇一五年。
  • 植村玄輝『真理・存在・意識:フッサール『論理学研究』を読む』知泉書館、二〇一七年。

各国に広がる教育現象学をいつかきちんと調べておきたいが、いつになることか。ようやく仕事をしながら作成した自身の投稿論文の一本目が形になりそうだけれど、掲載されるかは言うまでもないが不確定だ。余談ながら、フッサールが42歳まで給与のない私講師だったということ、そしてその苦難の時期に孤児院のファサードに書いてあったイザヤ書40章31節の一節を自身の支えにしていたということを最近論文で知り、勝手にシンパシーを感じている。

大戦の最中に子どもを失い、反ユダヤ主義の人々から教授職につくときも着いてからも苦難を被りながらも、草稿とはいえ膨大な量の言葉を書きながら尋常でない思考をたった一人行っていた一人の人間への尊敬と労わりを、持ち続けておきたいと思う。

「授業」と「総合」と「探究」のあいだに立つこと

「総合」や「探究」など、ある概念的な言葉の意味を使用した教育事例のバッドケースのみ取り上げていき、「この概念に基づく実践はおしなべて悪い」と判断するケースは総合の時にも起きていたし、いまは忘れ去られているかもしれないけどかつては「授業」という概念にも同様のことが起きていたことを思うと、歴史は立場を変えて繰り返していくものなのだろうかと力を無くす。

授業も総合も探究も、ある典型的な型として理解すると一面的に消費され、一面的に批判されるものになる。それらの言葉を多様な実践を拓いてきた理念として理解することが重要だと思う。事実、双方の思想は対立するものでもなければ矛盾もせず、相互に補い合えるものだ。

そうした補完的な関係性が可能であることは過去にも現在にも国内外の実践が示している。いまも伴走している公立小や私立校の先生方の実践は、双方のあいだにたちながらバランスをとって、すでに多くの知識を持つ子どもたちとともにしなやかに時を過ごしている。こうした稀有ながら豊かな実践が、学校内外の世論によって左右されてしまうことを、何よりも危惧する。

そのためにも、ひとは何も知らない白紙のようなものだから精確に知識を印刷術のように伝達しなければならないと考えた近代の過ちを経て、戦後の認知科学の進展を通じて(これまで知能遅滞とみなされてきた人々を含め)すでに人は生活の中で多くの素朴な観念を保持しており、個性的な認知機能と多様な身体を伴った個々の観念を繋いでゆく「図式」の洗練と概念形成を可能にする知的で情緒的な活動の支援へと、自身の過ちを見直してきた学術の歴史を踏まえながら、

そうした知的で情緒的な活動の支援にむしろ適合的な実践が、例えば過去の時代にも目立たないながら存在していたことを史実や事例の発見とともに見返しつつ、それらを参照しながらいまともに創り上げていくような教育実践史を踏まえた実践の創造ができるようにしたいと思う。

クリミア、ウクライナのこともあり、気力がかなり落ちているなかで、所用でデューイの『経験と教育』、フッサールの『イデーンI』を読んでいる。今なお誤解に晒される両書。進歩主義と伝統主義の対立の間にたとうとしたデューイも、経験主義、心理主義、反心理主義(観念論)の対立の間にたとうとしたフッサールも共に大戦と論難を経験しているが、今の有り様を観たら同じことが人と言葉を変えて繰り返されていると思うかもしれない。

どちらの側であっても、意識的に間に立つということは、双方の視点を受け入れつつ双方の一面性を批判しながら、より具体的で多面的な視点を獲得できる方向を探ることだと思う。間に立つことはその意味で危険だ。いつでも双方から糾弾される恐れがある。橋渡しの存在になる可能性もあるけれど、こいつは敵か味方かという議論をふっかけられれば、一番居所の悪い存在になるためだ。

それでも、きっと間に立たねばならない。うちらと奴らの間に立つことでしか見えてこない現実の歪みがある。子どもと大人、教育と社会福祉、郊外と首都圏、民と官。そうしたさまざまなあいだのなかに置き去りにされ見過ごされてきた人々の現実的な痛みや悲しみを引き受けていかなければ、結局、双方の利害を押し付け合う現実を見据えられるような冷えた視点はえられず闘いは終わらない。

これを書きながら、堀江敏幸さんの初期作『郊外へ』のなかの「灰色の血」と題された一章のことを思い返していた。

郊外団地に住まう移民の子どもたちが、ローリングストーンズなどの伝記を執筆した作家フランソワ・ボンの文章教室を通じて、技術的な修正を受けつつも、自身の生活する郊外の街の現状について既存作品の言葉を転用しながら書き出していったことについて触れられているのだが、この教室で生まれた出来事を文学の「授業」と呼べばよいのか、社会課題につながる「総合」と呼ぶ方がよいのか、個々人で行った「探究」と呼ぶべきなのか、それは技術論的にはうまく形容できないことだと、きっとお読みいただいた方は思うことだろう。

自身を正当化しつつ、相手を糾弾する言葉をつくることはたやすい。その前に、その「あいだ」に立つことができることはないか考えていかなければ、私たちは容易にいくつかの言葉の間に微塵の隙間もないか異世界よりも遠い距離があると思い込んでしまう悪癖を持つからこそ、気をつけていかねばならない。

伝統的評価観とその苦痛の表現/「ロストワンの号哭」「廻廻奇譚」「ぜんぶあんたのせい」

小学生時代には12chのアニメに浸り、ボカロ黎明期にはボカロ曲を追い、カラオケで歌いまくっていた学生時代を経験してきた身として、学校教育関係者にはぜひサブカルチャー楽曲を学校のなかで児童生徒や教師が感じている「全体論的苦痛」の表現として一度聞いてみてほしいと願っている。

「全体論的苦痛」(holistic pain)というのは、生理的な苦痛だけでなく、生きる意味の喪失などのいわば哲学的な苦痛も含む、痛みに対する包括的な概念のことで、要素としては身体的、心理的、社会的、精神的苦痛からなるとされる。全体論的教育(holistic education)を目的とする教育は戦前からの歴史があるけれど、この苦痛の存在について意識しながら全体論的教育について議論している人はあまり見かけない(上智でお世話になった、宗教教育の専門家の方々の場合に、むしろ見かける)。

特に昨今の自己責任論を背景に強化されている、相手の存在価値を値踏みしたりランク付けしたりするためにテストの合否をつけたりテストスコアを競わせたりするような「伝統的評価観」が、どれほどの苦痛を児童生徒に与えているかを歌う楽曲はそれこそ80年代で言えば尾崎豊の楽曲群などにも顕著だが、ここにあげたNeru「ロストワンの号哭」や呪術廻戦のOPとしても著名なEve「廻廻奇譚」にも歌詞を読めばその「苦痛」や「呪い」にいかに現代的に抗おうとしているかは、一聴瞭然だと思う。

また、Civilian「ぜんぶあんたのせい」はこの全体論的な苦痛を若手教師の視点から歌ってくれている気がして、勝手に共感してしまった。念のために書いておくと、これらの楽曲をそういう視点からだけ切り取りたいわけではない。これらは単純に桐田が好きな楽曲群であって、純粋にめっちゃ格好いいと思ってカラオケで歌いたいとも思っている一方で、ここに書いたようなことも感じながら聴いているということなのだ。

自分も高校時代に自己責任論を振りかざされてかなり生きづらかったし怖かったけれど、あの時よりもいっそう真綿で首を絞めてくるような世間になってきている。サブカルチャーからは苦痛の原因として語られるほかない教育からできることがあると願いたい。総合・探究はその意味でも児童生徒も教師も自分の生きる筋を追求し自分の「声」をあげられる機会にしたい、してほしい。

学校の中に渦巻く苦しみと痛み

子どもも大人も「呪い」を自覚することは難しい(呪術廻戦0参照)

垂直的承認の困難

推論主義について知りたいと思って、『ブランダム 推論主義の哲学』(白川晋太郎・著)を拝読した。文章も洒脱で面白く、推論主義から世間の面倒さに焦点を当てていく独自性も興味深かったし、すでに事例も報告されているように推論のネットワークに基づく言語使用から意味の規範性(この言葉はこの意味で用いるべきとする社会的ルール)について明らかにしていく点で教育学(特に教科教育)への応用が効きそうで、まだ全てしっかり把握したとは言い難いながらも自分自身いろいろと応用可能性の妄想を膨らませていくことができた。

ブランダムはニュープラグマティズムの旗手で、近著としてヘーゲルの『精神現象学』を自身の提起した推論主義(inferencialism)から解釈した相互承認論などを論じている『信頼の精神』(A Spirit of Trust)がある。一度ツイッターか何かでその大著ぶり(800頁超)を拝見して以来いつか読みたいなと思っていたのだけれど、白川さんの著作での解題を読むにかなり教育学的にも重要な議論をされているのだなということがわかってありがたかった。

特に、相互承認モデルがそのままでは無限後退に陥るという点は身近な実例も含めて確かにと頷いた。相互承認モデルは端的に言えば、AさんがBさんの資格を承認し、BさんがAさんの資格を承認する、つまり自分は相手の、相手は自分の資格を承認しているということを、AさんとBさんが互いに承認しあっているという形式が基礎となる。

相互承認の一つの具体例は「契約」だ。例えばAさんがある企業の経営者Bさんの書いた社員募集のチラシに書いてある必要な資格や労働形態の欄を見て、これなら自分も働けると思ってやってきて、履歴書などを元にBさんに面接してもらい、契約を結ぶことで働き出せるという今や日本でも日常的になったやりとりを思い出してもらいたい。これはいうまでもなく、法のもとにAさんに労働する権利と資格、Bさんに雇用する権利と資格が付与されているからできることであり、法の下の平等がなく生まれ育ちで一生の資格と権利を決めて、個人の自由な生き方を簒奪していた数百年前の封建主義時代には考えられなかったことだ。

しかし現代においてもすぐ思いつくように、互いに法的な権利や資格を持っていると認め合っていても先に進めないことがある。相互承認は法のもとの自由を持つ権利的主体として互いを認めあうという近代の出発点ではあるけれど、その後のゴタゴタをどうするかという問題は、ヘーゲルも考えた通り単に法のもとの自由を確かめ合ってお互いの自由を認め合っても、なかなか前に進めない。同じ法的・権利的主体でも、経営者としてのAさんと労働者であるBさんにはそれぞれ異なる資格・権利が与えられていくが、労働争議などに見られるように、互いの権利を尊重した上での調整はむしろ必須だ。

そこから先は、岡山大でヘーゲル哲学を通じた社会哲学の研究をされている竹島あゆみ先生の議論を参考に述べるなら、自由かつ平等に同じ権利と資格を持つとみなしあった個人同士の「水平的承認」から、自由で平等な権利と資格をもとにそれぞれ異なる専門性や役割を社会の中で獲得していくことで生まれていく、指令を出す人と従う人というような異なる権利と資格を持つ人々からなる社会全体の中での「垂直的承認」の可否も問われてくる。

例えば、ある会社のある部門で働くCさんは自分と同等の資格を持つ同じ部門の人々からその仕事の良さや正しさを承認されており、その意味で十分に仕事を行なっているし、会社全体のために正しいことをできていると思っているとしよう。そして、他の部門の人たちも、同様に感じているとしよう。

一見この会社では万事がうまくいくように思えるが、資格を分け職能を分けて行く部門化(分業と専門化)のすえに、逆説的に他の部門の仕事の良さや正しさを判断できる専門性がない人たちが同じ会社の中にどんどん集まってくるという事態が起きてくる。

すると、ある部門がよそから見れば悪いことに見えても実は良いことをしていたり、一見良いことをしているように見えても実は悪いことをしていたりしても、その正しさや悪さをきちんと判断できる資格がその部門に勤めている人たちにしか与えられなくなっている以上、部門を超えて互いの実践の正しさを相互に承認しあえることはどんどん難しくなっていく。

そして「よそからどう言われようと、うちはずっと良いことをしている」という内輪の確信によって、部門の内側から見れば善でも、会社全体的には「偽善」であるような実践が維持されていく。すると、うちは良いことをしているのに、他の部門の人々が悪いことをしているので会社全体が悪くなっていくという議論を「誰もが」するようになっていく。

こんな状況でいかに部門の上下(垂直性)を超えて互いの資格とその実践の正しさを吟味し、互いの誤っているところを指摘しあえるのか、そして互いにその過ちについて指摘する「資格あり」と承認しあえるのか。これが問題だ。そしてこれは本当に企業経営、組織経営でもよく問題になることだなと、末席ながらベンチャー、メガベンチャー、NPOなどの組織で働いたことのある身として実感する。

しかも、上述の文章の「部門」を「産業」に、「会社」を「社会」に変えれば国家内の社会経済システムについて、また「部門」を「国家」に、「会社」を「大陸」などに変えれば国際情勢について当てはまることが理解できると思う。

これらの垂直的承認の困難は、ブランダムの推論主義の考えを参考にするなら、自身の誰々の実践を正しいとみなす態度を超えて、過ちを修正できる可能性をいかに担保するかといういみで、「態度超越性」や「客観性」の問題として議論できるものと考えられる。結論から言えば、結局は外部の人を巻き込んだとしても(時代的な限界などを含め)絶対的な知識の正しさは現時点で誰も保証し得ない以上、相互承認は常に2者間を超えて拡張していく歴史的な運動性を持たねばならない。内輪で「これは戦争でなく、軍事作戦だ」と相互に承認できたらその実践の正当化は終わり、には決してならない。

その拡張の方策として白川さんの著作で挙げられているものとしては2つある。1つは、例えば人は(自分を単に認めてくれる人でなく)本当に資格を持つ人にこそ承認してもらいたいと願う「承認欲求」があるという概念をおくことで、2者間で相互承認を洗練していく根拠をつくる。もうひとつは、今の私たちが過去の人たちにとって正しいと思われていたが実際は誤っていた実践を思い出すとともに、未来の人たちにも今の私たちにとって正しいと思われていたが実際には誤っていた実践を思い出してもらえるようにしておく。

つまり、その推論がどのように間違っていたかを「発見」し、過ちを「修繕」(repair)し、その修繕したことを含めた過去の過ちを実際に起きた「歴史」として「想起」(recollection)してもらうこと、そしてその過ちを過ちとして認めた上で時代を超えて互いに「赦し」を行うという「倫理的態度」を醸成していくことによって、相互承認を拡張していこうとする。

後者の「修繕」と「想起」はデューイ的には探究そのものであり、倫理的態度の醸成に至ってはもうコミュニケーションの様々な障壁を取り払っていくプロセスといういみで教育そのものと言えそうだ。しかし近代教育の器としての学校もまた一つの近代社会であり、近代的社会制度である以上、教育委員会、管理職、教員、あるいは理事、管理職、教員というような垂直的なシステムはしばしば生み出されてしまう。その上で、互いにその地位に立つ資格と権利を相互に承認できるかという「垂直的承認」の困難は常についてまわるだろう。

つまり、子どもが相互承認についての教養を身につける以前に、そもそも近代の分業社会で生きる人々誰しもがその垂直的承認を行うことのできる知識や態度を身につけること自体、制度的に困難なのだ。さらには、教育システム内部に限っても学歴や偏差値などの垂直的な格差を設ける伝統的評価観を背景に、教育格差が広がり続ける一方だ。

社会システムの方を見ても、市民相互の水平的な承認を維持するために設けられたはずの垂直的な社会システムが、まわりまわってその垂直的な社会システムの特権的な地位に立とうとする権威主義的な政治家や経営者を生み出してしまい、その地位に立つ「資格」を問うことが国民や職員にとって困難になる社会システムをこっそりと作り出してしまうことすらある。

2つの大戦に見られたように、法的な平等のもと選ばれた国の運営者が、デマや扇動、思想弾圧を介して社会システムを誘導し、数多くの実務にあたる兵士として子どもも若者も等しく徴兵し、特定の民族集団や職能集団を排除したのは敗戦国でも戦勝国でも等しく起きたことだ。ポストモダンの思想はこの水平的承認を生み出す「法」もまたひとつの暴力であり、それによっていかに垂直的な不平等(承認の拒絶)が隠されやすいかを明かしている(ex. ベンヤミンからデリダのルート)。

弱肉強食などの誤った自然主義的な思想(実際には自然の中には弱肉強食の単一のヒエラルキーがあるのではなく、循環的で調整的で多元的な生態系がある)を退けつつ、生存権を相互に承認しあう「市民」と、その生存権の部分的放棄を相互に承認し合うことになる「兵士」という矛盾する存在を社会の中に同居させる、法の垂直的な社会システムを生む暴力性をも、考えなければいけないのである。

竹島先生の論文にあるようにヘーゲルもまたこの垂直的承認の困難を前に、もはや承認ではなく自身の過ちを自ら告白し、互いにその過ちを赦し合おうとする「和解」というキリスト教的概念に訴えていたことや、その後のハーバーマス、ホネット、ブランダム、ピンカード、ピピンなどの承認論の深まりも併せて考えていかねばならないのだが、この垂直的社会システム自体がもつ困難を単に垂直的な格差のある立場にある個人同士が相互に承認し合うことを切り口にしても前に進めないということだけは言えると思う。

2022/2/25追記:元のポストは「相互承認はなぜむずかしいか」だったのだけれど、ロシアのウクライナ侵攻を前にして、改題し、加筆修正した。

生活と自己を描き出すジャズ、ヒップホップ/ブルーノート・レコード ジャズを超えて

ブルーノート、と聞けば、青山にあるあの青いドアが思い浮かばれる。高校時代に学校をサボっては岡本太郎美術館に何度も行ったその道すがら、そのドアをくぐり抜ける日を夢見ていたものだった。と言って、まだその夢は実現していないのだが。

このドキュメンタリーが描き出しているのは、アフリカン・アメリカンの若者たちがなぜジャズをしていたのか、その音楽に惹かれてアメリカにドイツから亡命してきたユダヤの血を引く二人の男性がなぜジャズ・プレイヤーたちに「自由」を与えていったのか、そしてそのジャズの文化がいかにヒップホップに受け継がれているのか、だと感じた。

ジャズではプレイヤーの一人ひとりにソロがある。ソロがあるだけでなく、ともに音楽を奏でコミュニケーションをとりながらも、互いに独立したリズム、メロディを生きることができる。たとえ誰か一人がミスをしてしまったと思っても、それを楽曲として正当な流れに変えていくことのできる、即興的でコミュニカティブな「生き方」としてのジャズがそこにある。

ジャズがそのような音楽を紡ぎ出した背景には例えば、スラムが即興的でコミュニカティブな生き方が求められる場でもあったということもあっただろう。であればこそプレイヤーたちは、ジャズをプレイしたかったのかもしれない。そうした場から匂い立つ危うい香り、行き交う人々の言葉の温度、通り過ぎる風の冷たさ、総体として浮かび上がってくる喧騒を、往時も現在もクラシカルな音楽に感じ取ることは非常に困難だろう。

ジャズには「自分の生活」が活写されているという感覚。一音楽ジャンルとしてのジャズではなく、「生活」を活写するものとしての、いわば人文学としてのジャズ。一つひとつの楽曲がどのような生を活写しているものであるかという問いを手元に置きながら楽曲を注意深く聞いていくなら、その音の流れの根底でゆらぎようなく露わになっていく、プレイヤー自身の人間性の確かさ、不確かさが現れてくるように思われる。

この映画を視聴しながらその人間性について非常な感銘を受けたのが、遅ればせながらというべきだろうが、セローニアス・モンクだった。生活の活写というよりもただ自分自身でいることを謳っている楽曲の流れの中に、こちらを感動させようとしたり次の楽想を予期させておいて導こうとしたりするような、他者を音で支配しようとする感覚が微塵もない。

THELONIOUS MONK “Blue Sphere”

自分達のルーツ、自分自身が歩んできた道のりに広がっていた風景に単なる郷愁でなくアイデンティティを根付かせながら、他者を支配の対象とせず互いに替えの効かない自己を生き合うということは少なく見積もっても民主的な社会にとって重要な態度だ。スターバックスなどの巨大なコーヒーショップで流れてくるジャズ風の音楽を、単なるバックグラウンドミュージックとして受け取るのはもったいない。アメリカ近現代社会の生活を想起したり、ひいては自己の生き方についての哲学を教わってみたりするのも、一興ではないだろうか。

教育の独立性

麻布中入試の「難民問題」が反響、大人も舌を巻くほど「すごい」「入管職員も受けてみて」|弁護士ドットコムニュース | https://www.bengo4.com/c_16/n_14078/

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これぞ社会科教師!と呼びたくなるようなテスト。こんなこと小学生に問うのは酷だと言われるかもしれないが、むしろ六年生こそ教科として歴史や公民に触れて日々のニュースなどから告げられる社会の有り様もより広く見えてくるようになり、教科書の中に書いてある理念とのズレから玉石混交のネット記事を読み問題意識も持つ頃だから、適切かつドンピシャだと思う。

自分の参観した長野の公立小での授業を振り返っても、日米の沖縄戦を1日ずつ辿っていきながら日本軍、米軍、沖縄の人々の三つの視点から資料を読み込み熱心に議論する社会科の授業を、子どもたちが率先して創り出していた事例もある。一人だとむずかしいことも、友達とともに臨めば存分にやれる可能性は多いに生まれてくるのが学校の面白いところ。

さて、テストからはコンテンツ暗記の精度を問う銀行型の教育から、いち生活者、当事者として課題を特定し解決するために知識を活用し自分の声を社会にあげられる教育へとシフトしていくぞという製作者の気概のようなものを感じた。受験産業のなかに押し込められてしまっている学校であればこそ、そうした教育をしなくては、この学校を経て向かう先に見据えられている官僚コース、政治家コースのことを思うと、国も地域も人も壊れていくという危機感すら感じる。

教育は、変動する社会の後追いをするのではないし、エリート主義的な立身出世のためだけにある選別装置でもない。学校側もそんな装置にされるのは不本意だろう。変動する社会に絡め取られず、それを見据えて変えていくことのできる人間性をあらゆる子どもたちに公正に、粘り強く育てる。カントの言うような教育の独立性がそこにある。

自分の周りでも、過渡的なものとは考えたいが、エリート主義へのバックラッシュが起き始めている。近代そのものが持つ官僚主義、メリトクラシーゆえにそれは無理からぬことと感じつつも、これを安易に非難することなく、ともに乗り越えていく視点、社会的実践を創りたい。

いくつかの可能性があるが、一つは選別装置としての高等教育とは別に、一人一人が民衆として学び合える場を作ることの重要さを看破したグルントヴィ、もう一つは銀行型教育を批判したフレイレ、そして自分の専門の一つであるマキシン・グリーン。彼らと彼女の視点の先にあるものを一言で言えば「周縁化」だと思う。不当に周縁化されることのない社会を作り出すための土壌を、教育は練り上げることができるのであり、事実そうしてきたという自負を持つことが必要だと思う。

このことに関連して、Artsyで取り上げられていた、アメリカのマディソン・スクエアで公開されているヒュー・ヘイデンの新作についての記事(Hugh Hayden’s Striking New Sculptures Take on the Inequities of Public Education)が示唆的かもしれない。以下に抄訳する。

「世界各地において、教育と公平性と経済は切っても切れない関係にあり、また、教育は不公平や不公正に対する最大の武器であると広く信じられている。先日、ニューヨークのマディソン・スクエア・パークで発表された彫刻家のヒュー・ヘイデンの新作「Brier Patch」は、世代を超えて続く貧困に対する第一の解毒剤である質の高い公教育を受けることができるのは誰か、そしてさらに重要なことには、それを受けられていないのは誰なのかと問いかけている。

木を主な素材とする38歳のヘイデンは、公園内の4つの芝生のうえに「教室」を作るために、学校の机を100個製作した。机は1970年代に戻ったかのようなデザインで、褐色で生々しく、保護用のマルーン色の樹皮が剥がされているが、これらのログウッドはニュージャージー州のパインバレンズで伐採されたもの。机から出ているのは、葉のない、ひょろひょろとした木の枝。そのあまりにも不毛な姿のため、二度と花を咲かせることのない永遠の冬の状態にあるのではないかと思われてならない。近くで見ると、木の枝と机の見事な融合に魅了されてしまうが、これはヘイデンの熟練した彫刻家であることの証明と言える。彼は、過去と現在、有機物と無生物の間に談話を作り出しているのだ。

(…)ヘイデンの視点では、枝はアメリカの公教育の特徴となっている官僚主義的な迷宮を示し、雑木林はアメリカンドリームを阻む障害を象徴している。かつてはどこにでもあった、より良い生活を約束するものが、実現するのが著しく困難になっている。

ヘイデンのスタンスは正しいが、彼自身の教育へのアクセスや学問的な経験は、この最新作で取り上げられているものとは対照的である。ダラス出身で教育者の息子であるヘイデンは、英才教育やイエズス会系の私立高校に通い、アイビーリーグのコーネル大学とコロンビア大学の卒業生でもある。この差別化が、アメリカの教育における格差がいかに深いかを、特に個人的な方法で鋭く浮き彫りにしたのかもしれない。」