【報告】湘南白百合学園さまにて、「リベラルアーツ講座 教育学とはなんだろう」を講演いたしました

STEAM教育の教材開発で協働している株式会社トモノカイさまのご依頼で、湘南白百合学園中学・高等学校さまでのリベラルアーツ講座の一環として「教育学とはなんだろう」という題で講演いたしました。

後日談的に正直なところを言えば、リベラルアーツ講座の一環としてというお題と、「教育学」という学問についての導入的なお話をとご依頼いただいた折に、非常に悩んでしまいました。リベラルアーツにもさまざまな定義と実践がありますし、教育学も同様です。

素直にその旨をお伝えしたところ、桐田さんにとってのリベラルアーツと教育学で十分ですとお話しいただいて、少し肩が軽くなりつつ、では自分にとってそれらはどんな存在なんだろうと考えあぐね、一枚もスライドが書けない日々が始まりました。

最終的には、自分にはまだ教育学とは何か、教育とは何かがわかりません、だからこそ垣根をこえてさまざまなアート(the Arts)に触れ、学術に触れて研究しています、というある意味身も蓋もない開き直りによって、ようやくスライドを書くことができました。この講義を選択して参加くださった中高生の皆さんの感想と(ご許可をいただきました)、そのスライドの一部をご共有できればと思います。

  • 今回の講座のような内容は明確な道を指し示さずに終わることが多い印象でしたが、今回は違いました。権力を持った上の人にはどう現状を知って動いてもらうか、と質問すると明確な方法を3つも提示していただけました! 他にも本や学科を紹介してくださり、こういう本を読んだり学科を探してみると良いかもと自分の道が今までより開けた感じが確かにします。今までこんなに自分の将来に直結した講座に出会ってこなかったので、とても充実した時間となりました。(中3・大変満足)

  • 私達にも身近な教育を目まぐるしく変わる現代にどう対応させていけばいいか、教育とはどのようなものであるのが良いのか、それを考えるきっかけになりました。今の日本はたくさんの問題を抱えていますが、その中の一つの教育についての知識を得ることができて自分でも考えていこうと思いました。リベラルアーツは様々な分野に関連していてもっとリベラルアーツについて知りたいなと思いました。教育研究についての本も紹介してくださったので読んでみたいと思います。(中2・おおむね満足)

  • 教育学は教師、教授などの職業しか関わりがないと思っていたのですが今回この講座で話を聞いて教育学ってすごく広くて深いなと思いました。(中3・おおむね満足)

  • 「教育」というと、私たち子どもにとっては「与えられる」もののような感じがして、受け身の姿勢になってしまいがちだと思いますが、自分が教育者であるかどうかに関係なく、「まだ何か、私たちが見て見ぬ振りをしていることはないか」など考えて、他にも学ぶ価値のある今注目すべき教育の新しい分野が生まれる可能性を探して、求めて、それをみんなで共有していくべきだと思いました。教育者である大人が、一方的に子どもに「教育」というものを与えるのではなく、「子どもにとっての不安」や「子どもが、『これは解決すべきだ』と 思っていること」(たとえばグレタさんのような子どもの視点)にもっと注目して、耳を傾けるべきだと思いました。例えば、今回桐田さんが実際に読んでくださった本のように、リアルな貧困のエピソードを聞いて、みんなで向き合う道徳要素のある授業をもっと取り入れることで、「助けたい」と本気で思う優しい子がもっと出てくるのではないかと思います。 今、日本にも世界にも、あらゆる解決するべき課題がありますが、「私たちにできること」 の第一歩は、「知る」ことです。教育は、子どもたちに知ってもらう場を与えることでもっと大きく活躍できると思います。私は今は、将来国際関係の仕事に就きたいと思っていますが、ひょっとしたら教育に関わることになるかもしれません。教育に関する職に就くかどうかに関わらず、これからもいろんなことを、私自身も学んで、そしてさらにはみんなが、未来の大人になる子どもたちが「世界の問題に積極的に取り組もう」と思ってくれるようなという高い意識を持てるように引っ張っていけるようなそんな大人になりたいと思いました。 桐田先生、貴重なお話をしてくださり、ありがとうございました。講義の後も、私の話に丁寧に向き合ってくださりありがとうございました。とても充実した、自分の考えを深めてくれ る講座でした。またこのような機会があればぜひ参加させていただきたいです!(高2・大変満足)

指導教官からの受け売りですが、若い人たちと相対するときほど真摯に向き合わねば、すぐにその怠惰を見抜かれてしまい学習への無気力を招き、それは社会全体の無気力につながってしまうと肝に銘じて、ほぼ大人向けと言っていいスライドを用意し、『銀河鉄道の夜』などのおそらく身近な文学作品の例を用いて端的に説明しつつ、

ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』、上間陽子先生の『海をあげる』を一部朗読しながら、自分の考える教育学研究のリベラルアーツ上の人文学的な大切さ、「本文に書かれていないこと」(=余白/周縁margin)を見つめることでこれまでなんとなく慣習的に決められていた本文の書かれ方から解放された「別のあり方」(alternatives)を想像していく姿勢について一緒に考える時間を持ちたいと思って臨みました。

本当に、鋭く、自分自身の揺るがせにできない関心事と将来に響く問いを持っているひととの関わりは、年齢を問わず自分をワクワクさせるものなのですが、ここ数年の中高生の方とのお話のなかではここまで広く問題関心を共有できたことはありませんでした。

教育学に関心を持ってくださっていたり、知見を広げてみたいと思って教育学の講座をとってくださった湘南白百合のみなさん、そして株式会社トモノカイの関係者の皆様、湘南白百合学園の関係者の皆様に、改めて御礼申し上げます。

追伸:最後にもしこの文章をみなさんが読んでくださっていたらということも踏まえて、講座ではお伝えできなかった、上間先生のスピーチと、今回のお話の背景にあったリベラルアーツについてのシカゴ大のマーサ・C・ヌスバウムの議論を引用して、終わりたいと思います。

シスジェンダーであれトランスジェンダーであれ、女性がその言葉と心をそのままに学術的なことや社会的なこと、政治的なことを主張することに、日本はまだ大きな「壁」を作っています。その壁を打ち砕いてその先に進むためには、わたしを含めたシス男性が「見ないふりをしていること」を見つめる機会を作り「知る」ことから始めていかなければなりません。

リベラルアーツはそのためにも重要な役割をたくさん担っています。ぜひ一緒に、たくさんのアートに触れて、たくさんの学術に触れて、現実の多元性を見つめるトレーニングをしていきましょう。最後までお読みくださり、ありがとうございました。

市民は、事実の知識や論理だけでは、自分を取り巻く複雑な世界とうまく関わることができません。最初の2つと密接に関連する市民の第三の能力は、物語的想像力と呼ぶことができるものです。これは、自分とは異なる人の立場に立ったとき、その人がどのように感じるかを考え、その人の物語の知的な読者となり、そのように置かれた人が持つであろう感情や願い、欲求を理解できる能力を意味します。西洋でも非西洋でも、民主主義教育の最良の近代的な考え方の中で、共感を培うことが重要な位置を占めてきました。この育成の多くは家庭で行われなければなりませんが、学校、さらには大学もまた重要な役割を担っています。もし、その役割を十分に果たそうとするならば、カリキュラムの中で人文科学と芸術に中心的な役割を与え、他人の目を通して世界を見る能力を活性化し、洗練させるような参加型の教育を育成しなければなりません。

Nussbaum, Martha C., Not for Profit. Princeton University Press. Kindle version. p.96

ヨーロッパやアジアの大学が抱えているもう一つの問題は、優れた民主的市民にとって特に重要な新しい学問分野が、学部教育の仕組みの中で確実な位置を占めていないことです。女性学、人種・民族研究、ユダヤ学、イスラム学など、これらはすべて、その分野についてすでによく知っていて、その分野に集中したい学生だけを対象にして、周縁化される(marginal)可能性があります。対照的に、リベラルアーツ・システムでは、このような新しい学問分野は、すべての学部生が履修を義務付けられている科目となり、文学や歴史など、他の学問分野のリベラルアーツ必修科目も充実させることができるのです。そのような必修科目がない場合、新しい学問は疎外されたままです。

Nussbaum, Martha C., Not for Profit. Princeton University Press. Kindle version. pp.126-127.

【告知】『カリキュラムデザインの道具箱』β版第1部 第1章 配信

「こたえのない学校」さんと協働で実施し、ご好評いただいたカリキュラムデザインの講座、「シンプルに深く学ぶカリキュラムデザインを探究する カリキュラム工作室」のための教科書、『カリキュラムデザインの道具箱』を、現在製作しています。今回はそのうちの第1部・第1章を配信いたします(配信ページはこちらから)。

※上のサンプル画像は見開きになっていますが、販売するデータはPDFのため1ページずつの表示になります。あらかじめご了承ください。

※※第1章冒頭までの無料のサンプルデータは、本データをもとにしたワークショップ告知記事のリンクからご覧いただけます。

(以下は販売ページの紹介文と同じ内容ですが、本書を書くに至った動機と経緯について書いているので、ご興味ある方はご一読いただけると嬉しいです。)

制作の動機と道のり

カリキュラム工作室を始めたいと思ったきっかけは、友人・知人の先生たちからさまざまな相談を受けたことでした。学習指導要領の言葉が複雑すぎてわからない、概念探究を実施してみたいけれど概念という言葉がうまく理解できず具体化するイメージが持てない、総合学習を実施してみたいけれどどんな風に年間の計画を立てれば良いかわからない、などなど。

また、概念学習や探究学習と、これまでの教科の授業や総合学習、そして学習指導要領とをそれぞれまるで対立するものであるかのように語ることで新旧、官民学を互いに分断させるような世間やネットの言葉に遭遇して、先生自身が「公立にいるべきか、私立に行くべきか」「オルタナティブでなければやりたいことはできないのではないか」と自分の進むべき道について迷い、どうしたらいいのかと悩まれている姿に出会ったことも、大切なきっかけでした。

当初はその相談を受けて、「概念学習も、総合学習も、探究も授業も、公立でも私立でもオルタナティブでも、学習指導要領とも矛盾しないあり方でカリキュラムをデザインすることはできる」と、個別に対応していました。

けれど、やはり個別に対応しきれなくなった折に、学習指導要領の背景にあるさまざまな学術的な知見と教育実践の事例に基づきつつ、国内外で実施され始めている「概念に基づく探究」のカリキュラムデザインと、国内で伝統的に実践されてきた総合学習や教科学習のカリキュラムデザインとを、矛盾なく行き来できるような「橋渡し」を行うことが必要かもしれないと、こたえのない学校の代表の藤原さとさんに相談して共感していただき、共同開催できることになったのでした。

講座には、ありがたいことに公立・私立・オルタナティブを問わず、小中高など学校種を問わず、また教職員、管理職、社会教育関係者、教育委員など立場・役職を問わず、働く地域も違うさまざまな方々にご参加いただきました。そんな皆さんが、グループを組みながら指導要領などを用いて実施できる自身の知的好奇心に駆動される探究的なカリキュラムデザインを試行錯誤し、概念的に学ぶこと、また学習材を通じて学ぶことが本来持つ好奇心の満ちていく面白さ、楽しさを味わう関係性が結ばれていくありようは、とても心が動かされるものがありました。

一方で、カリキュラムデザインの前提となる、教育哲学・思想、教育心理学、教育社会学、教育工学などが蓄積してきた理論的な視点や、「概念に基づいた探究」などで求められる概念的に物事を考える視点、総合学習で求められる魅力的な学習材を見とる視点を使いこなせるようになるには、そうした理論的な視点を実践的に自分のものにして捉え返す考え方を、一人ひとりの日々の具体的な実践や生活実感と結びつけていく「時間」が必要だという課題感も感じていきました。

しかし考えてみると、こうした生活実感と結びついていく時間の必要性は、学校で教科書のなかの内容がわからず苦しんでいる子どもたちが直面しているそれと同じものですし、しかもその時間をたっぷり確保するためにも探究学習や総合学習が歴史的に生み出されてきたのじゃないかということに思い至ったとき、

概念の意味を学術的にかみくだいて説明する動画ではなく、たとえばキッチンのビーカーの目盛りに書かれた「リットル」には「計量」や「単位量」の概念が埋め込まれているように、概念が自然に用いられている身近な経験を紹介しながらイラスト付きで図解し、口語体で会話のやりとりのなかで、ゆったりと自分のタイミングで時間をかけながら自ずと学べるような本を作ろう、と思いついたのでした。

(言い換えると、結城浩さんの「数学ガール」のように架空の登場人物たちの会話を通じて学術的なことを解題していく本、あるいは、あさりよしとおさんの「まんがサイエンス」のように漫画的なイラストで抽象的なことや想像的なことを図解していく本を作ろうと思い至ったのでした)

そのため、本書は基本的に架空の登場人物たちの会話によって折りあげられています。ちょっと複雑な内容になりそうなところでは、イラスト付きでその内容のイメージを図解しています。本当はイラストレーターさんや漫画家さんにお願いできたらとも感じましたが、イラストはすべて自家製です。

さらにちょっとややこしいことに、本書はいわゆる教育学やカリキュラム研究など大学で講義され研究されている学術書レベルの内容と、現場で重宝されている教育書に記載されている具体的な実践レベルの内容とを、フラットにつないでいくため、「これは書籍としては学術書なのか教育書なのか手順書なのか」と、分類がしづらく読み手としても困惑してしまうかもしれません。

ただ書き手の立場としては、しばしば分断されがちな理論と実践、より厳密に言えば抽象と具体の間を橋渡ししていくことを試みている本として受け止めて下さると、ありがたいです。実際にその橋渡しができているかは、皆さんからのご感想を真摯に受け止めながら適宜判断しつつ、改訂を重ねていきたいと思っています。

最後に、本書の執筆・配信スケジュールについてお伝えさせてください。本書はいまなお製作中(2022年7月末で第1-4、9-10章まで執筆を終えている段階)で、いわばWEB漫画・エッセイの連載のようなイメージでBoothにて配信していく予定です。巻末にアンケート画面に遷移するQRコードを用意していますので、読者の皆さんからのフィードバックをいただきながら版を改めていきたいと思っています。

今後、章ごとに連載的にアップロードをしていくにあたって、率直な書き手へのフィードバック会を兼ねつつ、内容をより深く理解できるよう章ごとの内容に関連したワークショップも開催していく予定です。章の無料サンプルデータもそのワークショップの告知記事に添付しておりますので、ご関心を持たれた方はぜひお申し込みいただければ幸いです。

『カリキュラムデザインの道具箱』β版ワークショップ第1回開催のお知らせ

カリキュラム工作室 短期版

『カリキュラムデザインの道具箱』β版ワークショップ 第1回

昨年から今年初めにかけてこたえのない学校さんと協働で実施しご好評いただいた「シンプルに深く学ぶカリキュラムデザインを探究する カリキュラム工作室」の教科書として制作している、『カリキュラムデザインの道具箱』β版の第1章を読み、教科の授業、総合学習、探究的なカリキュラムデザインに限らず、学級運営や学校運営にも通底して大切になる「視点の切り変え」の構えを体得していくワークショップを開催します。

『カリキュラムデザインの道具箱』β版第1部第1章サンプル(以下よりDL可です)

公立・私立・オルタナティブの先生方との伴走支援を通じて共有してきたカリキュラムデザイン、マネジメントの手法やモデルはさまざまありますが、それら数あるデザインを行うにあたって、子どもからの視点、先生からの視点、素材(学習材・教材)の視点、教科で大切にしたい視点、制度として大切にしてほしい視点の間を行き来する「視点の切り変え」を行っていくこと、そして何よりそうした視点の切り変えを日々の生活経験と地続きの学校生活のなかで行い、カリキュラムをデザインしていく自分自身が体験するワークを行うことで、よりしなやかに目の前にいる子どもたちや同僚の先生たちとの学びの筋道に沿うカリキュラムデザインが行いやすくなると感じています。

今後も、前回の工作室を終えてから店主桐田が制作しているカリキュラムデザインの教科書(現在製作中)の読書会と、その内容を深く理解するためのワークショップを、章ごとに短期的に開催していきます。ご興味ある方は是非、継続的にご参加いただけると幸いです。

こんな方におすすめです

・カリキュラムデザインの基本となる構えを学んでみたい

・探究的なカリキュラムのデザイン、授業のデザインに興味、課題感がある

・総合的な学習(探究)の時間のカリキュラムデザインに興味、課題感がある

・コンピテンシー・ベイスのカリキュラムデザインに興味、課題感がある

こんな方にはあまりおすすめできません…

・明日すぐに使える教科の知識、教育技術を教わりたい

・自分の中のモヤモヤをすぐに解消したい

・自分が実施しているカリキュラムデザインと異なるデザインのあり方を受け入れることが苦手

・好奇心を持って知識をつなげ物事に取り組んでいくことが苦手

<プログラム内容とスケジュール>

8月20日(土)20:00-22:00 対話

9月3日 (土)20:00-22:00 ワークショップ

9月17日(土)20:00-22:00 総括

費用:18,000円(税抜)(参考税込:19,800円) ※教科書代込み

開催方法:オンライン(Zoom)

人数上限:15名(最低遂行人数8名:お申込状況をふまえて8/15に実施有無を判断いたします)

◆対象

学校教員・民間教育者・教育を学ぶ大学生(先着順)

※お支払いは、申し込み後一週間以内に振込もしくはPaypal(クレジットカード利用可)での入金をお願いしております。申し込みフォームに入力後の自動返信メールを必ずご確認ください。

◆講師

カリキュラム工作室担当:桐田敬介
専門は学校教育学・芸術教育哲学。大学の共同研究員として研究を進めつつ、個人事業主としてさまざまな学校・企業・法人・個人のカリキュラムデザインの裏方役を担当。探究的なカリキュラムのなかでは総合学習の材中心のカリキュラムが大好物。信州教育の隠れファン。

https://researchmap.jp/keisuke_kirita/

※(2022年8月1日追記)第1部第1章の配信ページはこちらから。ワークショップには参加されないけれど、お読みになりたい方はこちらから購入できます。また本書を執筆した動機(現場の先生方からの指導要領や探究学習などについてご相談があったことなど)記載しておりますので、ご関心のある方は是非お読みいただけると嬉しいです。なお、ワークショップに参加される場合はお申し込み・お振込みが確認され次第データを送付いたします。

生き方としての民主主義

リハビリに、ここのところずっと考えては声に出せなかったことを書いてみる。

今月の初めにあった事件の後で、さまざまな声が友人知人の中でも私の中でも渦巻いて、容易に声を発することができなかった。むしろ世間からは沈潜して、いま一体何が起きているのかを落ち着いて考えなければと感じていたのだけれど、結果的に体調を崩しなかなか浮上することすらできなかった。

経済も、政治も、思想も、宗教も、ともに人間の営みである以上その営みの内実を批判し考量し行動に移す方角を見定める時間を設けなければいけない。明日、これをすることが何年も前から決まっているからと実行に移すのではなくて、明日何をするかどうかを今の私たちが決められないでは、元の木阿弥だ。

信州の学校で、今日は算数でなかなか議論が紛糾したから、明日は2時間算数にしようという話し合いを先生と子どもたちがしていた風景を思い出す。先生はもちろん年間の指導計画の流れを見据えながら、明日どんな時間を過ごそうかと子どもたちに話しかけている。

そうした、緩やかながらしっかりとした意思決定の背後にあるのは、時間の流れは私たちが生み出すものであって、誰かの決めた時間の流れに私たちが巻き込まれるのは本末転倒だとするような、時間の知覚のあり方だったように思う。

総合学習でも、何か専門的なことが問題になれば、その筋で信頼のおけそうな人に尋ねる他はないが、そうだとしても自分が学んでおかなければそのありがたい語りすら意味を受け取れずに終わってしまうと、自分たちで調べてから伺いにいく。

経済、政治、思想、宗教についての意見をもち民主的に意見を交わすために、それらについて調べ始めたときに感じるその知識と立場の過剰さ、一人で考えても時間が過ぎていくだけのように感じられる途方もない問題に直面するとき、教育という活動の意義深さと深刻さを思い起こさなければいけないように感じられた。

教わる前に、教わる構えがなければならない。教わるとは足りなかった知識をインストールする(情報の共有)のでもなく、技術を盗む(技能の習得)のでもなく、教え手の告げた主張とその理由を吟味するという構え、相手の放った言葉のボールを受け取るという構えがなければ、教わることはできない。

普通選挙をしている時点で人権概念に依拠して成立する政治活動をしていながら、基本的人権を夢想と難じる声。ある経済政策の恩恵をマジョリティが受け取ったことによって大きな貢献がなされたという意見に基づきながら、結局経済と政治を多数派のための多数決装置としてしか見ない概念としての民主主義の理解の薄さ。

素朴な優生思想、能力主義、努力への原因帰属のゆえに自責することを自律かつ自助に基づくこと、他責することを他律的で共助・公助を求めることを選択することにほぼ等しいとみなす、自由意志・責任・福祉概念の危うい誤解。

それら市民社会を支える概念への不理解は、しかし壊すべき壁でも岩でもなく、ボトルネックでもなく、ホルツマン的に考えるなら人々が演じてきた社会的演技の結果であり、これまでも市民社会という舞台で繰り返し展開されてきた一つの演目なのだろうと思う。

教養が表面的に尊ばれ無知であることが忌避されながら、実のところ、今の状況は誰も完璧には何が起きているのかわからないほど混濁としているのだと思う。例えある人が時の政権にちかく、各国政府で起きている内情を知悉していたとしても、その数十キロメートル隣で家を奪われた人の暮らしがどのようであるかを知らないように。

知らないからこそ、立場を超えて話す必要が生まれる。政治的な信念の対立は、背景を分かち合い認め合うことで消失させるべき問題でもなく、人格や存在の否定につなぐような爆発物でもなく、むしろ肯定的に自身の立場からは見えず聞こえず触れられもしないものとコミュニケートするための条件だ。

「民主主義」は間接民主制・議会民主制などの制度的手続きをのみ意味する概念ではなく、旧来の慣習にない利害関心を持つ人々──こども、若者、マイノリティ──とコミュニケートし、利害を共有し暮らしていく「生き方」のことなのだから。

そんなことを、この嵐のような状況の最中で、デューイ『民主主義と教育』を読みながら、考えていた。

【報告】「主体的に学習する態度の育成」のための基調講演・ワークショップを実施いたしました

東京都は品川区立伊藤小学校さまにて、「主体的に学習する態度の育成」のための基調講演・ワークショップを実施いたしました。

当日桐田はリモートにて講演を行い、ワークショップのファシリテーションには桐田が憧れてやまない酪農教育の実践者であり、さまざまな地域での学校づくり、学級づくりのファシリテーターをされてきた横山先生(愛称よこぴぃさん)、そして伊藤小の研究主任の先生方に校内研修をワークショップの場に転換するための場の設えにご尽力いただきました。改めて御礼申し上げます。

今回、校内研究の主題が「主体的に学習する態度の育成」とのことだったので、自分が院生時代に参観した信濃の授業の事例を共有しながら、子どもたちのなかで次第に学びが進展していくプロセスを見取っていく「見とる力」を養いつつ、「明日、子どもたちのこんな姿に注目して実践してみようと、みんなで動き出せる」ことを目標にできたらと思い、NITSの研修プランA4を参考に自分なりにアレンジして実施してみました。

上段左:講演準備時の様子(とっても緊張していました……)
上段左以外:授業動画を見ながら、「主体的」「対話的」「深い」学びが実現されていると考えられる子どもたちの行動、言葉、振る舞いを自分なりに見取り、付箋にメモして、グループでまとめていくワークショップ時の様子。

結果として、自分はいつもの癖で喋り過ぎてしまったところもあったのですけれど、よこぴぃさんが皆さんの様子を見取りながら的確に時間を確保してくださったおかげで、主体的な学びの姿、そしてその学びを相互に支え合う学びの姿としての対話的な学び、深い学びそれぞれを見とるワークショップの雰囲気を作ることができ、「主体的に学習する態度は主体的な学びが中心だけど、それを達成するには対話的な学びや深い学びをしてないとできないことに気づいたという話を先生達がしていて、かなり深いところまで理解してもらえたと嬉しくなりました」、「終わった後に何人にも、どんな視点をもったらいいのか、自分の授業を振り返ることで分かったなど聞くことができました」と研究主任の先生方からフィードバックをいただけた時には、最低限の役目は果たせたのではないかと胸を撫で下ろしました……。

研修を行うにあたって自分なりに主体的に学習する態度の育成とその評価に関して調べていくなかで、多くの現場の先生が困っている印象を持ったので、今回まとめたスライド+講演原稿(一部、著作権や個人情報の観点から割愛しています)をPDFで共有したいと思います。このトピックにご関心または課題感のある学校現場の先生方、教育委員会の方々のお役に立てれば幸いですし、ご依頼があれば可能な限りお応えしたいと思っています。

【業績】STEAM教育の教材「PICK UP STEAM ドローンで動画をつくろう」の原案制作を担当いたしました

株式会社トモノカイさんとのSTEAM教育の教材、”PICK UP STEAM ドローンで動画をつくろう”で原案の制作を担当いたしました。

当初は探究カリキュラムの単元構想の企画くらいを担当する予定だったのですが、次第に桐田の妄想が爆発して、結果的に”Pick up Steam”というシリーズのタイトル、物語の設定、ストーリー、セリフ、キャラクターデザイン、コラムの原案、探究カリキュラムとしての中核概念と探究の流れのデザインの原案を起案しました。

桐田の悪い癖で、会議中に頼まれてもいないアイデアを拡散的にぽんぽん出すのですけれど、「流石に受けいられないだろうな」と思っていたら何とGOサインをいただき、ストーリー原案やキャラ原案がプロの方の手で次第に形になっていくさまを眺めることができてとっても幸福でした。

幼い頃から漫画読み、アニメ好きで、声優さんへの憧れから演劇に興味を持って平田オリザさんの戯曲に親しみ、院で構成主義の指導教官に学びナラティブを研究した人間としては、「ジャスパープロジェクトのように知識を活用する場面を設けつつ、社会とのつながりがあり、読み物として面白く、語り合いが生じるような媒体にしたい」と思って、頑張ってみました。

その成果がどうなっているかは生徒さんたちに委ねるほかはありませんが、桐田的にはSTEAMは日本の漫画(manga)・アニメ(anime)・ゲーム(game)・ネット(net)の想像力とめっちゃ相性いいと思うという桐田の妄想コンセプト、題して”MAG-NET STEAM”の一発目ができたという感慨もありつつ、自分の考えたキャラクターが喋る漫画を読むことができるという漫画読み的にはかなりこれ以上ないぐらいの悦びに浸っております。

自分にSTEAMの企画を依頼してくださった 後藤 友洋 さん、自分の無茶なプロットをきちんとプロの視点から監修してくださった 船津 宏樹 さん、 本当にありがとうございました! 御礼申し上げます。

論理的なフィードバックは感情を紐解く接続詞を伴う

「えっ?」と思うくらいフィードバックが荒い人(具体的な提案がない、表現への個人的な感情的反応しかない、こういうものしか受け入れられないものだという根拠が明示されず、抽象的な反駁しかない、etc)が、アートや教育、学問や仕事、政治の現場に立たれていることの絶望感たるや正直凄まじいものがある。

原義に立ち帰るなら、フィードバックは結果に対する反応の「送り返し」だけを意味するのではない。その目的は複雑な状況に対応するための制御の選択肢を増やすことを通じて行動の微調整を可能にしていく「振り返り」にある。

具体的には、自分が相手の作品や行動に感じた優れた点と課題点などの見立てを伝えるにあたって、そのように感じられた自分なりの価値観や世界観といった価値基準について言語化しておき、この自分の見立ての前提となる基準に相手も同意することができるものであるかどうかを確かめた上で、相手がとりうる選択肢と行動の調整方法と思われるものを提示し、そこから次善策を協議して次の行動方針をすり合わせ、実際に行動を調整するところまでがフィードバックの1過程、1サイクルだ。

よって、端的にいえば勝手にやってみさせて「これはだめ」「なるべくこうして」「これは微妙」「これは違う」とだけ送り返すのは、評価の基準も明示せず自分の暗黙理の基準に従えというメッセージを伝えているだけで、ネグレクトにすらあたるものであり、少なく見積もっても単なるリアクション以上のものではない。

しかもたちの悪いことに、そうした方のフィードバックの文面は一見’論理的’に見える体裁を整えているのだが、よく見れば接続詞がなかったり、助詞を多用しすぎていたりして、文章相互に密接な関連性がなく論理の体を成していない。それなのに個人の感情的な反応とは思われなさそうな形式的な学術用語で返すことを「ロジカル」かつ適切な「フィードバック」だと捉えている大人の多さに戦慄する。。

子どもへの金融教育や探究学習以前に、そうした子どもたちの学びを受け取る立場になる成人たち自身が、成人学習として論理について探究していく経験こそ必要になるものなのではないか、以下の文献をもとにNPOや企業人向けに文章教室を開きたいとすら思ってしまった。

論理は世間で言われるような冷たい非人間的なものではなく、むしろ複雑な人間の複雑さをありのまま捉えるために微細な感覚や感情の差異を言葉にして、その差異に関わる幾重もの文脈をひとつひとつ解して「文」に翻訳し、接続詞などを用いて原型をとどめられるように接続し直したものを通じて、当の複雑な状況を他者が辿り直し自他の相互理解を深めていくことを可能にするためのものだから。

石原 浩一, 泰山 裕『フィードバックと振り返りが学習者の認知欲求に及ぼす影響の検討』教育工学会論文誌

石黒圭『文章は接続詞で決まる』光文社新書

みるものが変わる、悠久の時間を生きる

先日、カリキュラム工作室のフォローアップ懇親会(?)を行った。年度初めの忙しい折にもかかわらず来てくださった先生たちには頭が上がらないし、「このために時間を調整してきました」と言ってくださった某先生の表情の輝きには目が眩むほどだった。

その先生が、この工作室を経て資質能力などのテーマを中心に読むものが変わってきたし、楽しい学校にしたいと思うと学校のなかで観るところが変わってきたという話をしてくださった。「でもまだ、具体的に何かを作れているかというと、そうではないんですが」と謙遜いただいたのだけれど、何かを具体化しなければと焦ることはないですし、そのみるものの変化がとても嬉しいことですし、大切なことだと思いますと私見を伝えさせていただいた。

それに、みるものが変わると、コミュニケーションがきっと変わってきますから、大丈夫ですよとお伝えした。すると、「確かに、コミュニケーションは変わってきた自覚はあります。楽しい学校にしたいと伝えていたら、五、六年生の子たちが委員会活動をしているのですけど、いつもと同じ活動しかしていないのできっと退屈していると先生たちからお話をいただけて」と、委員会活動が楽しい活動になるにはどうしたらという話し合いが先生たちとの間で生まれてきたことについて共有いただけた。

もうこの話をいただけただけでも、カリキュラム工作室を実施してよかったと思えた。こんなふうに真摯に学校現場のなかで、喜びや楽しさという肯定的な感情を軸にする学校運営の視点として見つめ続けることの大変さを自覚されながらも、それでも見つめようとする胆力の深さを感じられるとき、大袈裟でなく人間性への信頼が私の中で維持される。

学校教育では、授業論であれ教育論であれ、なんらかの方法論や習慣化した方法論についての話がしばしば先に出てきてしまう。どんな論であっても具体化できるかどうかが実践の分水嶺だと考えられてもしまう。けれど、具体化するというからには、いまここで起きていることを見つめる冷静な視点と、今ここで起きていることをどんなふうにどんな方向性で進めていきたいかという未来の視点がしっかり定められていないと、具体化できたとしても短期的な変化を繰り返すのに終始して、成果も長期的に評価できなくなるのでみな疲弊してしまう。

疲弊すればコミュニケーションも粗雑になるし、相談なんていう冗長なコミュニケーションが図られることはなくなり、自分の仕事は終わったという連絡と報告だけがなされるような冷たい職場環境、学習環境が出来上がってしまう。

けれど、自分がまなざすものが変わってくると、身の回りの出来事のなかで取り上げるものが変わり、次第に身近な人々とのコミュニケーションがゆっくりと変わっていくことができる。子どもたちの資質能力、それが自然に発揮される好奇心の発露の瞬間、つまり子どもたちがワクワクする瞬間を見ることに注力しようと思えば、日々のちょっとした振る舞い、ちょっとした言葉、ちょっとしたこだわりの中にもその好奇の種は見つかる。

ワクワクするところが見つかると、人は不思議なもので誰かに伝えたくなる。それが自然なコミュニケーションだし、そうしたコミュニケーションの中でこそ「相談」という入り口も出口も明確でない冗長なコミュニケーションが生まれる余白も確保できる。

「あ、そう言えばさ」と連想から始まり、「どうしたら良いかなあ」「いや、何に困ってるのかもわからないんだけど」というような、話のゴールも入り口も明確でないけれど、だからこそゴールと入り口を互いに探り合いながら創り合うことができる(=相談できる)ための、冗長なコミュニケーションができる場の大切さは、言いすぎても言い過ぎることがないくらいだと個人的には感じている。

なぜならこうした冗長なコミュニケーションには、コミュニケーションすること自体に意味があるからだ。正確に言い換えれば、互いの信頼関係の構築という意味がある。しかもこの冗長なコミュニケーションを通じて互いの信頼関係を作りながら、相手の困りごとなどを尋ねていくコミュニケーションを得意とする存在が、実は子どもたちだということに気づくと、このコミュニケーションは教育方法としての意味すら獲得する。

子どもたちは冗長さの中で相手のこだわりや相手の困りごとに耳を立てている。保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校などの教育機関のなかだけでなく、公園や放課後の遊びのなかでの日々の子どもたちの言葉に耳を傾けると、ほとんどがこの冗長なコミュニケーションのなかで困りごとや悩みごとの共有が行われていることに気づかされる。

というより、私たち大人の方がそうした悩みごとや困りごとを一手に引き受ける場を作って「窓口化」したり、相手の気持ちを聞き尋ねあうコミュニケーションを「定型化」してしまいがちなのだ。しかし窓口化してしまうとその窓口に近寄る人へのスティグマが築かれてしまうという逆説と、定型化され手続き化されたコミュニケーションが苦手な子どもたちにとって、この窓口化と定型化という2つの打ち手はあまり良策とは言い難いと思われる。

奈須さんがよく信濃の学校に訪れた際に独り言のようにいう言葉の中に、「悠久の時間」という言葉がある。日々のカリキュラムも時間割も子どもたちとともに一緒に、焦らず、落ち着いていて、リラックした状態で、ゴールもスタートも自分たちで決められる冗長さの高い生活時間のなかで物事を相談して決めていく時間感覚が、そこには底流のようにいつもある。

この時間感覚こそが、コミュニケーションに焦りや苛立ちを無くしていくために必要なのだとさまざまな組織で働いた身としても感じている。端的に言えば冗長さのない組織は、目的から逆算した工程を満たすために人々を道具として扱うので、相手の都合は二の次、三の次になる。工程を満たす意識が納期が近づいているのに満たされない工程への焦りにつながり、工程の進み行きを阻害しているものとして人を見なすことに繋がり、立場の強いものの苛立ちがそのまま立場の弱いものへと伝わり、結果苛立ちまぎれの粗雑なコミュニケーションが雪崩を打つように拡がっていく。

この負の循環を防ぐためにも、人間という大切なものを育み続ける「悠久の時間」を生きようとすることが必要で、その時間感覚を得るためには人間のなかのどんな資質能力を(平たく言えばどんな人間性を)大切なものとして見るかを定める視点の設置が必要になってくる。その大切な人間性を守り育むために身の回りの時間を融通するのであって、時間を守るために身の回りで育まれようとしている大切なものやそれらに触れる機会を削るのではない。いわんや人の心を削るような時間感覚はあってはならない。

カリキュラムデザインもマネジメントも、時間の融通と評価のサイクル回しが目的なのではなくて、大切なものを焦らず怠けず自ずから育み合うことができる時間感覚と、そうした時間感覚を生み出す日々の些細なコミュニケーションの積み重ね、そしてそうした些細なコミュニケーションを許しあえる文化の醸成のために行うものなのだということを、私はさまざまな学校で学んできたように思う。そのお裾分けと洗練の機会を少しでも設けていくことで、焦らないノルマ的でない学校・学級運営によって次第に相談の文化が生まれ、互いに勤務時間も融通が効かせられるようになるということを伝えながら、長時間労働が慢性化している学校文化を微力でも是正していけるようなお手伝いができたらと思う。

欲望論と共同幻想論

現象学についての講座を開くにあたって、ルーヴァン大学でフッサール文庫の管理もされていたSebastian Luftさんの”Subjectivity and Lifeworld in Transcendental Phenomenology”を牛歩の歩みで読んでいるなか、日本で言えば榊原さんの『フッサール現象学の生成』のような、フッサールの草稿や未訳著作をたどりながらフッサールの思考を辿ろうという気概と挑戦を感じられる本をゆっくりじっくり読む日々を過ごしたいなと感じている、今日この頃。

某お世話になっている方からご質問があったので念の為、竹田青嗣さんの『欲望論』について、現時点での自分の所感をまとめておく。

竹田さんはご本人も悩まれていたらしいが、個人的には彼は自身に多大な影響を与えた吉本隆明さんの『共同幻想論』を無自覚に反復し続けているのではないかと思っている。実際、信念対立といった造語も、エロス、欲望、自由、社会契約、相互承認といった既存の学術概念の彼なりの解釈も、どこからその解釈が出てくるのだろうと首を傾げることが多い場面でも、共同幻想の言い換えと言う補助線を引くとスッとわかりやすくなる。

そのいみで既訳著作の中にあるフロイトのタブー概念に、同じく既訳著作の中にあるヘーゲルの方法を接木して造語を作っていった吉本さんと、竹田さんは同様に既訳著作のなかのニーチェの力概念に、既訳著作の中のフッサールの方法を接木して造語を作っていった竹田さんは論じ方もとても似ているように思われる。併読するとおそらくその印象はずっと高まるかと思うので、ご興味のある方は是非。

両者をよく見れば、日本の状況と合わせ鏡の自身の境遇を何とか言葉にしようと努力した人と言えるかもしれないけれど、公正を期してあえて言えば、悪い点として海外の概念をもとにしつつ独自の造語を新たに作り、自分がその学者の概念を全て理解したと感じて、海外に打って出るのではなく国内論壇の誰かの思想を乗り越えるために用いがちなところも似てしまっている。

竹田さんが欲望論で提起したという情動所与も、厳密にいえばすでにフッサールによって『イデーン』でヒュレーとして概念化はされている。それでもこの概念が大切だというには既存の一次文献、二次文献の参照と概念相互の比較と検証が大切になると思うのだけれど、少なくともご本人の著作の中にはそれもない。

学として探究する以上は、草稿研究をたどる欲求も必要も出てくると思うのだけれど、草稿研究を辿った形跡も見えない。弟子筋の岩内くんの仕事に竹田さんの超越論的現象学と既存の現象学や現代現象学はここが違うという区別の設定はあるのだけれど、竹田さんなりに解釈されたフッサールやハイデガーと実像との境を曖昧にしている状態でもなお竹田さんの論を現象学と呼称する必然性はどこにあるのかわからない(そのいみでは青学にいらっしゃる関根さんの『レヴィナスと現れないものの現象学──フッサール・ハイデガー・デリダと共に反して』のような精緻な研究を期待したい)。

むしろ欲望論は現象学というよりおそらく共同幻想論と呼んだほうが、ご本人の批評家としての系譜的にも実際の方法論的にも正しいかもしない、と個人的には感じている。

フッサールも、まるでカプセルの中に入って外界の感覚データまで自己の確信様相に変えてしまう態度を超越論的主観とは呼んでいない。竹田さんの欲望相関から真理の相対性を導きつつ共通了解や禁止を経て社会的な規範の相互承認へと積み上げていく論じ方は、ボルツァーノ由来の真理自体という概念を大切にしたフッサールよりむしろ真理をそうした確信=幻想に切り替えてその共同性(共通了解)を自分なりにブロックのように積み上げて社会全体の規範を論じる吉本さん的な方法論と似ている。

それを思うと、竹田さんがしばしば言われるように、フッサールの『現象学の理念』を読んで「フッサールがわかった!」と感じられたそのとき、吉本さんの共同幻想論を軸に解釈されたフッサール像が出来上がっていたんじゃないか、フッサールを通して吉本隆明を見ていたのではないだろうかと、考えてしまう。

ただ、そこでの「わかった!」を通すべく、すでにフッサール研究として積み上がってきたアカデミックな国内外の先行研究を引用して比較研究を行っていかない理由も、現象学とは違う道筋を歩んでいる自分の思考を現象学と呼ぶ理由も、アカデミックへのコンプレックスあるいはルサンチマンだったとしたら、それは国外から見ても国内から見ても、竹田さんを中心とする権威のテーブルでの信念補強型の思考にご本人の意思とは別に陥ってしまっていると映るのでは…と、草葉の陰からひっそり心配している。

竹田さんとその弟子筋の皆さんと仲の良かった加藤典洋さんもダイアモンド(どんな答えが来ても負けないことの比喩)であってはいけないと忠告されていたし、フッサールも小銭で払うこと(小さな問題を大きな原理で解決せず小さな回答を出し続けること)を美徳とするようにといっていたことを思うと複雑な気持ちでいるというのが、正直なところ。

教育現象学と、フッサール研究の拡がり

教育現象学教育における現象学的アプローチの広がりをドイツ、オランダ、アメリカそれぞれでみていくと様々なバリエーションがあり、それらを踏まえて自身のマキシン・グリーン研究につなげるにもやはり現象学、特にフッサール現象学を軸にしないとどの文献をどのように理解してバリエーションが展開されているのかを理解することが難しいと感じている。

いわゆる質的研究での現象学研究や実験現象学についてのサーベイはそれほど苦労を感じないのだが、教育思想として現象学を用いている場合に非常に困難を感じる。と同時に、倫理学、美学、道徳哲学、学問論、知識論、存在論、意味論、価値論、他者論、学習論、衝動論、情動論、規範論、教師論、子ども論などなど、さまざまなアプローチを見せてくれる魅力もあるのがなんとも厄介なところである。

そのなかで個人的に下手の横好き的に読むことを好んでいる著作がフッサールのそれで、遅まきながら原著も辿々しくも読み始めた。一部で「フッサール現象学では価値の問題をうまく扱えない」「術語がない」という議論があり教育界隈にも共有されてきているけれど、興味のある方はぜひとりあえず以下の著作群を読んでフッサール研究について自分も勉強中なので一緒に勉強しましょう、と伝えたい。

フッサールの既刊著作にあたる時間の余裕はないという方は、まずは『ワードマップ 現代現象学』を勧めたい。フッサールの価値覚としての感情に基づく価値論、そのほか現象学者たちの価値論についての議論が章を割いて展開されている点がありがたい。

  • 植村玄輝・八重樫徹・吉川孝(編著)『現代現象学 経験から始める哲学入門』新曜社、二〇一七年。

また、自分もまだ全部深くは読み込めていないのだけど、フッサールの倫理学、価値論、衝動論、情動論については以下の著作を。

  • 吉川孝『フッサールの倫理学:生き方の探究』知泉書館、二〇一一年。
  • 稲垣諭『衝動の現象学:フッサール現象学における衝動および感情の位置づけ』知泉書館、二〇一七年。
  • 八重樫徹『フッサールにおける価値と実践 善さはいかにして構成されるのか』水声社、二〇一七年。
  • ナミン・リー(著)中村拓也(訳)『本能の現象学』晃洋書房、二〇一七年。

吉川さんの著作は発展史的な整理でじっくりと追っていくことができ、フッサール自身がどのように「生の価値」をめぐって「職業的な生」から「倫理的生」を目掛けて自分自身の学究を行っていたかがしみじみ伝わってくるような印象。博士課程の頃に読んで、それまで自分の感じていたどことなく機械的なフッサール像がとても人間臭くなってきて、母子の愛やあたかも不死であるかのようにして目的を持って生きること(ガンジーのよう)について論じていたところにも衝撃を覚えたのを記憶している。

八重樫さんの著作はこの初期から晩年までの展開を視野に入れながら、主にフッサールの価値論に焦点を当てつつフッサールの師匠であるブレンターノの価値論との差異からフッサール自身の道徳哲学について体系的に吟味できる。感情と評価作用の関係性から、使命や愛(触発)による価値の把握に移り、次第に「よく生きること」を目掛けつつも実際には揺れ動きや幻滅、死を経験せざるを得ない有限な人生を生きる人間にとって、人生の無意味さが問題になる現実の事態について一個一個問いを深めていくあたりがとても丁寧で、本のサイズ感も手伝ってかまるで良質な中編小説を読んでいるかのよう。

「何かを、あるいは誰かを、一貫性をもって愛している人にとって、彼が愛している当のものは、他人にとっては取るに足らないものであっても、現実に愛するに値するものなのである。他の種類の価値と同じく、ここでも、主体に相対的であることと客観的であることが両立する。
この意味で「愛するに値するもの」をもち、それにかかわる活動に打ち込んでいるとき、人は「そんなことをして意味があるのか」という問いに対して、「ある」と断言することができる。このとき、その人の人生は実際に生きるに値するものになっているとはいえないだろうか。自分にとって本当に愛すべきものをもつことで、人は永遠の相のもとでは無意味な人生を、生きるに値するものにすることができるのではないだろうか。」(八重樫, pp.253-4, 強調箇所は原文では傍点)

また、リーさんの著作はすでに93年にフッサール草稿の丹念な研究から衝動志向性、本能志向性の議論がフッサールの静態的現象学から発生的現象学への移行にとって重要だったことを発展史的に明かしているし、稲垣さんの著作はこの議論を参考にしながらフッサール現象学の意識概念の展開それぞれにおける感情・衝動の位置付けについて体系立ててくれている。

個人的にはいわゆる志向(教育学的に身近なトピックで言えば思考・判断・表現)とその充実が、乳幼児期の「やみくもに身体が動くことの喜び」から「手足を動かす際の物体の運動における喜び」へ、つまり感情の発露が伴う身体運動への「努力」とその「充足」にと考えられていたという辺りなどは(189頁)、ホワイトのコンピテンスの議論との親近性もあり教育関係者は「おお!」と思わずにいられないだろう。

「生とは、志向と充実の多様な形式および内実における努力である。つまり、充実においては最も広義の意味で快感が、非充実においては快感へと向かう傾向が、純粋に欲情する努力として、もしくは充実的現実化において解放される努力として〔存在し〕、それらは快感がそれ自身のうちで解放される生の形式の現実化プロセスにおいて成し遂げられる」(稲垣, 2017 p. 189から孫引き)

フッサールの『イデーン』で展開した超越論的現象学と、『論研』時の記述的心理学としての現象学の理解には以下の2つの著作を。個人的には佐藤さんの著作で議論されていた観念論W,Sの分類を通じてフッサール超越論の理解がとても進んだし、植村さんの著作はボルツァーノの真理自体の考え方と志向的体験についての理解が進んだ。と言ってもそもそもこの認識で合っているのかまだまだ心もとない。フッサール研究会や植村さんらが世話人として活動されている瀬戸内哲学会のワークショップがあればすぐオンラインで参加して勉強している次第。

  • 佐藤駿『フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学:『論理学研究』から『イデーン』まで』東北大学出版会、二〇一五年。
  • 植村玄輝『真理・存在・意識:フッサール『論理学研究』を読む』知泉書館、二〇一七年。

各国に広がる教育現象学をいつかきちんと調べておきたいが、いつになることか。ようやく仕事をしながら作成した自身の投稿論文の一本目が形になりそうだけれど、掲載されるかは言うまでもないが不確定だ。余談ながら、フッサールが42歳まで給与のない私講師だったということ、そしてその苦難の時期に孤児院のファサードに書いてあったイザヤ書40章31節の一節を自身の支えにしていたということを最近論文で知り、勝手にシンパシーを感じている。

大戦の最中に子どもを失い、反ユダヤ主義の人々から教授職につくときも着いてからも苦難を被りながらも、草稿とはいえ膨大な量の言葉を書きながら尋常でない思考をたった一人行っていた一人の人間への尊敬と労わりを、持ち続けておきたいと思う。