探究はヒトの過ちにもとづく

5年ほど前になるか、こたえのない学校のLCL(Learning Creators Lab)の1期のころ、探究という概念の系譜を知りたいということで自分なりにまとめてみたことがある。その結果自分なりに理解したことは、いわゆる伝統主義も進歩主義も、一人ひとりはたった数年〜数十年単位の寿命しか持たない葦のような人間の、自分の置かれた環境との関わりの中で「問い」を提起してきた「探究」のプロセスのなかで蓄積されてきたものということだった。

以下はそのまとめを自分なりに図表にしたもの。いま見ても矢印が多方向に伸びて読みづらく資料としての体裁をなしていないように思うけれど、それでもこんなふうに一度ざっとでもアイデアのつながりとその流れを確かめたことで、その都度新たに論文や著作を読んでいくときの素地を作り上げることができたように思う。

よってこの資料の使い方としては、是非ともこの資料を「正解」とすることなく、興味のある哲学者や教育者を探してみたり、その興味のある人間から伸びている関係性を探ってみたりして、自分なりの発見に繋げていくための跳躍台のようなものとして用いられることを推奨したい。

自分もこのマッピングをもとに教育という営みの探求をし続けていく中で、伝統主義的な授業の流れ(導入、展開、終末)の元になったヘルバルトが生徒の「興味」を重視していることや、教科書や指導案に使われている用語である「単元」(unit)という言葉を発案したチラーが「活動のまとまり」という意味でこの言葉を発案していたことなどを知ることができた。日本の教育者や教育学者たちの先見の明も課題も、比較思想的に辿ることができるようになった。

デューイも『経験と教育』や『民主主義と教育』で述べているけれど、伝統主義と進歩主義、教科と活動というような見かけの思想的・主義的な対立に惑わされないで、世代を越えた人間同士が知的かつ情緒的にコミュニケーションを取り合うという教育の営みを見つめるなら、それはある日いきなり神様から賜ったような営みではなく、社会的かつ歴史的に、地球の様々な地域に生きた人々の「経験」(experience)に基づいて次第次第に構築されてきたものと言わざるを得ない。

つまり、ヒトが自分たちの経験に基づいて教育実践をなぜ新たに生み出せてきたのかといえば、自分なりに好奇心や課題感を持って試行錯誤をして、他の人間たちとコミュニケーションをとり、ともに振り返りながら実践を改良し続け、その実践を共同体の中で(記録したり記憶したりして)共有してきたから、つまり探究してきたからに他ならない。

その意味でこの自分なりに好奇心や課題感を持って試行錯誤をして、他の人間たちとコミュニケーションをとり、振り返りながら実践をしていくというプロセスを踏んで、子どもたちと一緒に授業作りをしてきた、一部の日本の目立たないながら良質な実践を創り出してきた先生たちこそ実はとても探究的な実践者だ。

そんな先生たちは、表面的には講義的であっても実のところは双方向的に学習環境を整え、自分と同じように子どもたちにもその好奇心と課題感とともに試行錯誤とコミュニケーションをとる余地を生み出している。

そんな先生たちがたくさんいる日本の学校で、探究的な学びがより一層根付いていって欲しいと思う。しかしその願いが、上述したような思想や主義、伝統等の対立で叶わなくなっていく様を近頃散見するようにもなってきた。この資料を共有する背景には、そんな危機意識もあるんだろうと思う。

以下は余談だが、この図を作っているときに一番感動していたのは、古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトス(万物流転を見出した人として有名)の、「ヒストリアー」という言葉を用いた自己探究についての言及を発見したときだった。彼の著作は残念なことに断片しか残っていないけれど、「私は自己を探究した」という一つの言葉が残っている。

ヒストリアーは今でいう探索(search)、そしてどちらかといえば歴史的な探索という意味合いが強いが、紀元前に生きた1人の人間が自分のことを歴史的に探索した──自分の生きてきた道のりを振り返りながら確かめていった──という言葉の重みを思うと、その重みを受け取らなければいけないと感じてしまう。

さらにこの言葉の意味合いが歴史的探索だけでなく、人生を通じてなんらかの理念を追求(pursuit)していく意味合い──自ら問うというより、問いに問われて、自分の考えや行動を改めていく追求のプロセス──を持ち始めたとき、ギリシアに哲学が花ひらいたと思うと、一層その想いは深まる。(興味のある方はぜひ納富先生の「ギリシア哲学史」を参照ください)

その分、歴史が繰り返しつつある今の各国の政治状況、社会状況、教育状況を、上図のアイデアを生み出した当人たちが目の当たりにしたらどう思うだろうか、とふと考えてしまう。一方で、既に亡くなって70年近いデューイが述べたように、探究は「可謬生」(fallibility)、人間が常に過ちを犯しうる存在だということに根拠を持つということを思えば、一層探究的な視点に立つ教育実践や社会制度が必要だとも考えられてくる。

過ちを絶対に犯さない人間や、全知全能な人間が存在しているとすれば、また普遍的な真理がもし仮にすでに確定しているとすれば、探究する過程は必要ないものとして捨て置くこともできるだろう。しかし自分は探究をしない、探究は必要ないという言葉は、この可謬性という視点から見ると非常に危険なものに映る。

探究的な学びは、誰もが可謬性のもとに平等であるという認識を一人ひとりの子どもと大人に培っていくものでもある。平たく言えば、誰もが凸凹しているし、間違うことも失敗することもあるけれど、やり直せるということがみんなにとっての「当たり前」になっていく。そんな風通しの良い場所に暮らせる日を、創っていきたい。

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