学習の個性化はなぜ見落とされるのだろう

探究や個別化・個性化、という行政化された概念へのバックラッシュ(反動)がじわじわと起きている印象があって、非常にもどかしい気持ち。総合的な学習の時間の時と同じように、バッドケースだけが喧伝されて結果的にみんなの首がしまるような事態は避けたいと思うが、なかなか無力感に苛まれている。

端的に言えば「探究」という概念は単にさまざまな様式で喧伝されている探究型の授業を指し示す概念ではないし、「個別化・個性化」(personalization, individualization)はいわゆる自由進度学習や習熟度別学習といったインストラクションの手段のみを指し示す概念ではない。

講義形式だろうと、ワークショップ形式だろうと、児童生徒、青少年だろうと成人だろうと、何かを学習しているとき、その学習の過程はどのように生じているのかについての仮説的な概念の一つが「探究」(inquiry)。そして、その学習の過程がどのような性質を持ちうるのか、どのような条件下でより適切に学習という出来事が起こるかについての仮説的な視点の一つが、「個別化・個性化」だ。

そのほかの仮説・視点と並べてみれば、その仮説性がわかりやすくなるかもしれない。探究の他には、例えば「注入」(indoctrination)、「構築」(construction)、「社会的構築」(social construction)がある。平たく言えば注入は「言えばわかる」「教えたんだから伝わっているはず」という考え方だ。「構築」は例えば説明書を読みながらあーだこーだ言いつつ試行錯誤しながら家具を組み立てる時のように、すでに誰かの心の中にあるアイデアの仕組みを自分(たち)なりに組み上げていく時間と試行錯誤を大切にするという考え方だ。

社会的構築はこのアイデアが社会的に共有されているはずという前提を持ちつつ、推し進めればそのアイデアは誰かの心の中になくとも道具やモノの中に埋まっているものも含めると考えるところまでいく(植物の葉っぱの形や動物の身体の形を参考にして、優れた道具ができてきたように、アイデアは人間の心の中にだけあるモノではない)。

そのなかで探究は自然主義的な立場に立って、⑴環境と有機体との間の相互作用、⑵共同体の間での相互作用、⑶共同体の歴史的な経験の連続性に着目する。平たく言えば、動物も人間(という動物)も環境に働きかけ、働きかけられたり、また集団として働きかけ、働きかけられていくなかで、さまざまな思慮深い行動や知識を獲得してきたのであり、学習も教育もまずこの環境の中で同種・異種の声明とともに「生活」していく時間の上にあらゆる行動や知識は培われてきたモノなのだと捉える。

この視点が集団であろうと個人であろうと変わらないところが、個人的にはとても好きなポイントだ。要は、赤ちゃんも、子どもも、まず自分なりの生活と暮らしを生きているのであって、その生活に基づいて学習も教育も行われるのであり、その逆ではないという考え方(自然主義)に立つ。だから学習や教育に探究的な視点から携わる限りは、こどもたちや大人たちのその生活圏内にどのような環境があるのか、その環境とどんなふうに関わっているのか、働きかけられているのか、という経験の流れを見つめていく必要がある。

以前、この経験の流れのことを別の視点から書いたブログ記事があったのを思い出したのが、この記事を書く動機の一つになっている。
もう一つの動機は、こちらの記事を読んだこと。ここでも、指導の個別化に傾きがちになることで、こどもたちの生活が見過ごされてしまい、学習の個性化を支える視点や手立てを考慮する余裕がなくなってしまうことが丁寧に語られています。

また探究の中にも、「冒険」(quest)、「旅」(journey)といった比喩的なものから、「構造的」(structured)や「案内的」(guided)、「開放的」(free)など児童生徒の選択の幅を次第に広げていくさまざまな種類がある。さまざまな学校を参観した限りでは、熟達した日本の先生の授業の多くは、この探究の次元を融通無碍に行き来している講義形式で協同学習の要素を取り入れたインストラクションとして整理しうる。

その意味で、「差異化」(diffrentiation)のうまい先生がいわゆる授業のうまい先生として形容されているように思う。教室にいる児童生徒全員が達成できそうな協同学習の目当ては設定しつつも、個々のニーズ(こぼれ落ちてしまいそうな子ども)への対応が可能なようにさまざまな手立て(プリントや掲示物での工夫、学習のマイルストーンの置き方、グループワークの仕掛け、時に他の特別教室との連携)を用意しておく。指導案で言えば「留意」「注意点」の欄に書かれていることが自然とできている先生というイメージ。

だからこそなのか、学習の個性化というイメージが日本の先生には抱きづらいのかもしれない。以下の資料や著作を見ていただければとも思うが、個性化は「個人」の個性的な認知の仕方が出発点だ。指導の個別化のみなぜ喧伝されていくのか、そしてなぜ公教育では一斉指導やカリキュラム(教科書準拠)通りの授業をしなければならないという「思い込み」がこれほどまでに根深いのか、日本の伝統的な公立校での探究的で個性化・個別化教育の実践が公教育中の「例外」とされるのはなぜなのか、調査をした方が良いのかもしれない。

中教審資料「個別最適化された学びについて」(上智大学 奈須正裕)https://www.mext.go.jp/content/20200727-mxt_kyoiku01-000008845_4.pdf

『ワードマップ 認知的個性―違いが活きる学びと支援』

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