子どもを見つめて

子どもに学ぶとは、教育実践のなかでよく言われることだ。大まかに定義するなら、自他の世界観を変えるような気付きを、子どもたちの言葉や振る舞いから得ることを言う。

子どもに学んでいるひとに出会い、子どもについて話しあい学びあうとき、なんとも言えず幸せな気持ちになる。

おそらくそれは、子ども(学習者)を見つめることを通して学び合う大人同士が、子どもも大人も含めた「人間性への信頼」を確かめ合っているからなのかもしれない。

しかし、そのような場が貴重な場であったことを、最近とみに痛感している。大学院から教育畑に入り、そこで学んだ校内研や公開研で子どもを見つめる「当たり前」は、実は当たり前ではなかったんだと。

教師や研究者が編み出した授業の仕掛けや、システム、アプローチ、思想の批判や検討…。子どもの学びの姿は、その仕掛けの実証という意図に隠れて、なかなか見えてこない。

今そこで生きている子どもの学びの可能性は、本の中には書かれていないし、私たちの記憶のなかにもない。よく言えば、そこにはヒントがたくさんあり、悪くいえば、落とし穴もたくさんある。

この困難を分かち合うところに、おそらく教育学はその成立根拠を持つ。教えるってどういうことなんだろうと問い迷うところ、そこから教育学は芽生える。

この問いに応えようとしてきた何千年の営みのなかにちっぽけな自分がいることの不思議を思いながら、「当たり前」を当たり前にしていくためのスタディツアーや研究会をこれから企画していきたいと思う、そんな夜だった。

遺品と、沈黙

今日の午前中は、国際会議で発表した内容の論文化(頑張ればハンドブックに掲載予定?)に取り組んでいた。締め切りが早くなってしまったので、急いで取りかかっている。

午後は妻と、渋谷はイメージ・フォーラムにて小谷監督の『フリーダ・カーロの遺品ーー石内都、織るように』を観てきた。ほんとうに素晴らしい、映画で。

これまで、映画でも何でも感激するとたいてい批評みたいに論じてきたのだが、

今日は見終えたあとに、「これは感想を言葉にはしたくないな」と率直に感じた。なんと、妻とも意見が一致していた。

言葉にすることで、確かに抜けていってしまうディテールが、感情がある。

言葉には、経験したことを伝える機能もあるが、語られたことだけが自分が経験したことであるかのように、自分にも相手にも錯覚させる機能もある。

感想を話してみて、それだけじゃないんだけどなぁ、と経験と言葉との齟齬を感じられるうちはまだいいのだけれど、いつの間にか経験に言葉がぴったりはまりすぎてしまうときがある。Aときたら、Bでしょ!みたいな。

そうすると、自身が経験したことの意味を、いま自分で語れる範囲の意味で狭めてしまう回路や、ひとには言葉にしたくない経験もあるということに思い至らない回路が出来てしまう。

自戒を込めて、そう思った。最近読んだ『子どもと本』にも書かれてあったが、読書だって、感想や批評をそういつも求めなくてもいいはず。

沈黙を尊重することは、その経験の意味をその経験自身に還して、いずれ生じるかもしれない言葉が来るのを待つという構えでもある(そして、言葉が来なくても良いとも思う。経験は経験として蓄積されていく)。

今日はこの経験を大事にしたいから、まだ言葉にしたくないなと思えるほどのその意味を、じんわり味あわせてくれた小谷さんの映画、そして石内さんの写真に出会えて、とても幸福な一日だった。