社会演劇の舞台としての授業

今日はとても得難い1日だった〜。オンラインで某高校での生徒たち主導による数学探究の授業の参観+オンラインでの先生へのナラティブ探究インタビュー。

正直オンラインで実施できるかヒヤヒヤだったけれど、生徒たち先生方のすっごくポジティブなスタンスに加え、スタッフの皆さんの細かやな気遣いのおかげで無事にあるグループの学習過程に迫ることができた。

自分も修士・博士で鍛えさせられた校内研での伝統的な抽出児ノートテイキング術を、その後社会に出てからのインタビュー業、研究支援業で鍛えられた発言のスクリプトづくりに応用して行なっておいたおかげで、インタビューに授業のデータを持ち込みながら臨むことができた。

何より今を生きている生徒たちがとっても緩やかに焦らず自然体で探究学習を進め合っている姿が、本当に素晴らしかった!

その感動を端的に伝えつつ行ったインタビューでは、先生ご自身の専門知の風景とその教育実践のなかで試行錯誤を支えてきたご自身の原風景の一端を伺い知ることができた。

こうした時間が、何においてもかえがたい。

理論知からは決して出てこないフィールドワークの知、生きた言葉、感情と感覚、直観と思考が行き交う生きた人間だからこその記憶と経験の融合した根拠のある知がそこにある。それを綺麗事にも属人的な議論にもしないで、その個性的な実践の土台にある(生徒たちの流動的な動きを含めて成立する)緩やかな構造を見つめ吟味することが、質的研究には求められる。

余談ながら、自分のこの学びのプロセスを可視化する技能はもちろん教育界隈に飛び込んだ修士以降に身につけたものだと考えていたけれど、過日「どうやって理論と実践を行き来しているのか」と尋ねられた折に気付かされたことの1つに、自分が演劇、映画、ダンスを学部時代に制作しつつ、美学、美術史の研究をしていたことがその土壌になっているのかもしれないと改めて感じた。

アルベルティの絵画論をはじめとして、アートセオリーは作品から、実践での直観に導かれたものだ。論理学や数学、心理学など他の領域の知識を活用していたとしても、それを用いればすぐ作品になるというわけでもない。故に実作の過程では、これまで自分が蓄積してきた言葉(理論知)と技術(実践知)の間の微妙なあわいの領域が生み出されている。これは教育でも同様だろう。

その意味では老若男女問わず、誰しもが「今」の自分が持っている身体的技能と言葉を存分に用いて、(ボイスの「社会彫刻」とホルツマンの「舞台」概念を敷衍するなら)「社会演劇」の舞台を創造している真っ最中なのだと思う。そこにはヒドゥンカリキュラムのごとくサブテクストがいくつも入り込んでいる。たった一言、たった一つの身振りに、どれほど膨大な文脈が入り込んでそのアクターを人格的、個性的たらしめていることか。

その曖昧だが確固とした文脈を社会学や心理学、あるいは哲学や思想のカミソリでスパスパと切れるなら、教育学は存在しえない。この曖昧で確固としたサブテクストのゆえにアクター同士の関わりの1つとしての教育は、教育たりうる、のかもしれない。

演者も演出も脚本も少し齧った程度で、結局実作には結実しなかった高校、学部時代の蓄積が今の自分の教育研究の下地を作っているのかもしれない。

ともあれ、きちんとご報告できる日を楽しみにしつつ。今日の強い風に家がやられないことを祈っている。

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