生き方としての民主主義

リハビリに、ここのところずっと考えては声に出せなかったことを書いてみる。

今月の初めにあった事件の後で、さまざまな声が友人知人の中でも私の中でも渦巻いて、容易に声を発することができなかった。むしろ世間からは沈潜して、いま一体何が起きているのかを落ち着いて考えなければと感じていたのだけれど、結果的に体調を崩しなかなか浮上することすらできなかった。

経済も、政治も、思想も、宗教も、ともに人間の営みである以上その営みの内実を批判し考量し行動に移す方角を見定める時間を設けなければいけない。明日、これをすることが何年も前から決まっているからと実行に移すのではなくて、明日何をするかどうかを今の私たちが決められないでは、元の木阿弥だ。

信州の学校で、今日は算数でなかなか議論が紛糾したから、明日は2時間算数にしようという話し合いを先生と子どもたちがしていた風景を思い出す。先生はもちろん年間の指導計画の流れを見据えながら、明日どんな時間を過ごそうかと子どもたちに話しかけている。

そうした、緩やかながらしっかりとした意思決定の背後にあるのは、時間の流れは私たちが生み出すものであって、誰かの決めた時間の流れに私たちが巻き込まれるのは本末転倒だとするような、時間の知覚のあり方だったように思う。

総合学習でも、何か専門的なことが問題になれば、その筋で信頼のおけそうな人に尋ねる他はないが、そうだとしても自分が学んでおかなければそのありがたい語りすら意味を受け取れずに終わってしまうと、自分たちで調べてから伺いにいく。

経済、政治、思想、宗教についての意見をもち民主的に意見を交わすために、それらについて調べ始めたときに感じるその知識と立場の過剰さ、一人で考えても時間が過ぎていくだけのように感じられる途方もない問題に直面するとき、教育という活動の意義深さと深刻さを思い起こさなければいけないように感じられた。

教わる前に、教わる構えがなければならない。教わるとは足りなかった知識をインストールする(情報の共有)のでもなく、技術を盗む(技能の習得)のでもなく、教え手の告げた主張とその理由を吟味するという構え、相手の放った言葉のボールを受け取るという構えがなければ、教わることはできない。

普通選挙をしている時点で人権概念に依拠して成立する政治活動をしていながら、基本的人権を夢想と難じる声。ある経済政策の恩恵をマジョリティが受け取ったことによって大きな貢献がなされたという意見に基づきながら、結局経済と政治を多数派のための多数決装置としてしか見ない概念としての民主主義の理解の薄さ。

素朴な優生思想、能力主義、努力への原因帰属のゆえに自責することを自律かつ自助に基づくこと、他責することを他律的で共助・公助を求めることを選択することにほぼ等しいとみなす、自由意志・責任・福祉概念の危うい誤解。

それら市民社会を支える概念への不理解は、しかし壊すべき壁でも岩でもなく、ボトルネックでもなく、ホルツマン的に考えるなら人々が演じてきた社会的演技の結果であり、これまでも市民社会という舞台で繰り返し展開されてきた一つの演目なのだろうと思う。

教養が表面的に尊ばれ無知であることが忌避されながら、実のところ、今の状況は誰も完璧には何が起きているのかわからないほど混濁としているのだと思う。例えある人が時の政権にちかく、各国政府で起きている内情を知悉していたとしても、その数十キロメートル隣で家を奪われた人の暮らしがどのようであるかを知らないように。

知らないからこそ、立場を超えて話す必要が生まれる。政治的な信念の対立は、背景を分かち合い認め合うことで消失させるべき問題でもなく、人格や存在の否定につなぐような爆発物でもなく、むしろ肯定的に自身の立場からは見えず聞こえず触れられもしないものとコミュニケートするための条件だ。

「民主主義」は間接民主制・議会民主制などの制度的手続きをのみ意味する概念ではなく、旧来の慣習にない利害関心を持つ人々──こども、若者、マイノリティ──とコミュニケートし、利害を共有し暮らしていく「生き方」のことなのだから。

そんなことを、この嵐のような状況の最中で、デューイ『民主主義と教育』を読みながら、考えていた。

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