論理的なフィードバックは感情を紐解く接続詞を伴う

「えっ?」と思うくらいフィードバックが荒い人(具体的な提案がない、表現への個人的な感情的反応しかない、こういうものしか受け入れられないものだという根拠が明示されず、抽象的な反駁しかない、etc)が、アートや教育、学問や仕事、政治の現場に立たれていることの絶望感たるや正直凄まじいものがある。

原義に立ち帰るなら、フィードバックは結果に対する反応の「送り返し」だけを意味するのではない。その目的は複雑な状況に対応するための制御の選択肢を増やすことを通じて行動の微調整を可能にしていく「振り返り」にある。

具体的には、自分が相手の作品や行動に感じた優れた点と課題点などの見立てを伝えるにあたって、そのように感じられた自分なりの価値観や世界観といった価値基準について言語化しておき、この自分の見立ての前提となる基準に相手も同意することができるものであるかどうかを確かめた上で、相手がとりうる選択肢と行動の調整方法と思われるものを提示し、そこから次善策を協議して次の行動方針をすり合わせ、実際に行動を調整するところまでがフィードバックの1過程、1サイクルだ。

よって、端的にいえば勝手にやってみさせて「これはだめ」「なるべくこうして」「これは微妙」「これは違う」とだけ送り返すのは、評価の基準も明示せず自分の暗黙理の基準に従えというメッセージを伝えているだけで、ネグレクトにすらあたるものであり、少なく見積もっても単なるリアクション以上のものではない。

しかもたちの悪いことに、そうした方のフィードバックの文面は一見’論理的’に見える体裁を整えているのだが、よく見れば接続詞がなかったり、助詞を多用しすぎていたりして、文章相互に密接な関連性がなく論理の体を成していない。それなのに個人の感情的な反応とは思われなさそうな形式的な学術用語で返すことを「ロジカル」かつ適切な「フィードバック」だと捉えている大人の多さに戦慄する。。

子どもへの金融教育や探究学習以前に、そうした子どもたちの学びを受け取る立場になる成人たち自身が、成人学習として論理について探究していく経験こそ必要になるものなのではないか、以下の文献をもとにNPOや企業人向けに文章教室を開きたいとすら思ってしまった。

論理は世間で言われるような冷たい非人間的なものではなく、むしろ複雑な人間の複雑さをありのまま捉えるために微細な感覚や感情の差異を言葉にして、その差異に関わる幾重もの文脈をひとつひとつ解して「文」に翻訳し、接続詞などを用いて原型をとどめられるように接続し直したものを通じて、当の複雑な状況を他者が辿り直し自他の相互理解を深めていくことを可能にするためのものだから。

石原 浩一, 泰山 裕『フィードバックと振り返りが学習者の認知欲求に及ぼす影響の検討』教育工学会論文誌

石黒圭『文章は接続詞で決まる』光文社新書

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