みるものが変わる、悠久の時間を生きる

先日、カリキュラム工作室のフォローアップ懇親会(?)を行った。年度初めの忙しい折にもかかわらず来てくださった先生たちには頭が上がらないし、「このために時間を調整してきました」と言ってくださった某先生の表情の輝きには目が眩むほどだった。

その先生が、この工作室を経て資質能力などのテーマを中心に読むものが変わってきたし、楽しい学校にしたいと思うと学校のなかで観るところが変わってきたという話をしてくださった。「でもまだ、具体的に何かを作れているかというと、そうではないんですが」と謙遜いただいたのだけれど、何かを具体化しなければと焦ることはないですし、そのみるものの変化がとても嬉しいことですし、大切なことだと思いますと私見を伝えさせていただいた。

それに、みるものが変わると、コミュニケーションがきっと変わってきますから、大丈夫ですよとお伝えした。すると、「確かに、コミュニケーションは変わってきた自覚はあります。楽しい学校にしたいと伝えていたら、五、六年生の子たちが委員会活動をしているのですけど、いつもと同じ活動しかしていないのできっと退屈していると先生たちからお話をいただけて」と、委員会活動が楽しい活動になるにはどうしたらという話し合いが先生たちとの間で生まれてきたことについて共有いただけた。

もうこの話をいただけただけでも、カリキュラム工作室を実施してよかったと思えた。こんなふうに真摯に学校現場のなかで、喜びや楽しさという肯定的な感情を軸にする学校運営の視点として見つめ続けることの大変さを自覚されながらも、それでも見つめようとする胆力の深さを感じられるとき、大袈裟でなく人間性への信頼が私の中で維持される。

学校教育では、授業論であれ教育論であれ、なんらかの方法論や習慣化した方法論についての話がしばしば先に出てきてしまう。どんな論であっても具体化できるかどうかが実践の分水嶺だと考えられてもしまう。けれど、具体化するというからには、いまここで起きていることを見つめる冷静な視点と、今ここで起きていることをどんなふうにどんな方向性で進めていきたいかという未来の視点がしっかり定められていないと、具体化できたとしても短期的な変化を繰り返すのに終始して、成果も長期的に評価できなくなるのでみな疲弊してしまう。

疲弊すればコミュニケーションも粗雑になるし、相談なんていう冗長なコミュニケーションが図られることはなくなり、自分の仕事は終わったという連絡と報告だけがなされるような冷たい職場環境、学習環境が出来上がってしまう。

けれど、自分がまなざすものが変わってくると、身の回りの出来事のなかで取り上げるものが変わり、次第に身近な人々とのコミュニケーションがゆっくりと変わっていくことができる。子どもたちの資質能力、それが自然に発揮される好奇心の発露の瞬間、つまり子どもたちがワクワクする瞬間を見ることに注力しようと思えば、日々のちょっとした振る舞い、ちょっとした言葉、ちょっとしたこだわりの中にもその好奇の種は見つかる。

ワクワクするところが見つかると、人は不思議なもので誰かに伝えたくなる。それが自然なコミュニケーションだし、そうしたコミュニケーションの中でこそ「相談」という入り口も出口も明確でない冗長なコミュニケーションが生まれる余白も確保できる。

「あ、そう言えばさ」と連想から始まり、「どうしたら良いかなあ」「いや、何に困ってるのかもわからないんだけど」というような、話のゴールも入り口も明確でないけれど、だからこそゴールと入り口を互いに探り合いながら創り合うことができる(=相談できる)ための、冗長なコミュニケーションができる場の大切さは、言いすぎても言い過ぎることがないくらいだと個人的には感じている。

なぜならこうした冗長なコミュニケーションには、コミュニケーションすること自体に意味があるからだ。正確に言い換えれば、互いの信頼関係の構築という意味がある。しかもこの冗長なコミュニケーションを通じて互いの信頼関係を作りながら、相手の困りごとなどを尋ねていくコミュニケーションを得意とする存在が、実は子どもたちだということに気づくと、このコミュニケーションは教育方法としての意味すら獲得する。

子どもたちは冗長さの中で相手のこだわりや相手の困りごとに耳を立てている。保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校などの教育機関のなかだけでなく、公園や放課後の遊びのなかでの日々の子どもたちの言葉に耳を傾けると、ほとんどがこの冗長なコミュニケーションのなかで困りごとや悩みごとの共有が行われていることに気づかされる。

というより、私たち大人の方がそうした悩みごとや困りごとを一手に引き受ける場を作って「窓口化」したり、相手の気持ちを聞き尋ねあうコミュニケーションを「定型化」してしまいがちなのだ。しかし窓口化してしまうとその窓口に近寄る人へのスティグマが築かれてしまうという逆説と、定型化され手続き化されたコミュニケーションが苦手な子どもたちにとって、この窓口化と定型化という2つの打ち手はあまり良策とは言い難いと思われる。

奈須さんがよく信濃の学校に訪れた際に独り言のようにいう言葉の中に、「悠久の時間」という言葉がある。日々のカリキュラムも時間割も子どもたちとともに一緒に、焦らず、落ち着いていて、リラックした状態で、ゴールもスタートも自分たちで決められる冗長さの高い生活時間のなかで物事を相談して決めていく時間感覚が、そこには底流のようにいつもある。

この時間感覚こそが、コミュニケーションに焦りや苛立ちを無くしていくために必要なのだとさまざまな組織で働いた身としても感じている。端的に言えば冗長さのない組織は、目的から逆算した工程を満たすために人々を道具として扱うので、相手の都合は二の次、三の次になる。工程を満たす意識が納期が近づいているのに満たされない工程への焦りにつながり、工程の進み行きを阻害しているものとして人を見なすことに繋がり、立場の強いものの苛立ちがそのまま立場の弱いものへと伝わり、結果苛立ちまぎれの粗雑なコミュニケーションが雪崩を打つように拡がっていく。

この負の循環を防ぐためにも、人間という大切なものを育み続ける「悠久の時間」を生きようとすることが必要で、その時間感覚を得るためには人間のなかのどんな資質能力を(平たく言えばどんな人間性を)大切なものとして見るかを定める視点の設置が必要になってくる。その大切な人間性を守り育むために身の回りの時間を融通するのであって、時間を守るために身の回りで育まれようとしている大切なものやそれらに触れる機会を削るのではない。いわんや人の心を削るような時間感覚はあってはならない。

カリキュラムデザインもマネジメントも、時間の融通と評価のサイクル回しが目的なのではなくて、大切なものを焦らず怠けず自ずから育み合うことができる時間感覚と、そうした時間感覚を生み出す日々の些細なコミュニケーションの積み重ね、そしてそうした些細なコミュニケーションを許しあえる文化の醸成のために行うものなのだということを、私はさまざまな学校で学んできたように思う。そのお裾分けと洗練の機会を少しでも設けていくことで、焦らないノルマ的でない学校・学級運営によって次第に相談の文化が生まれ、互いに勤務時間も融通が効かせられるようになるということを伝えながら、長時間労働が慢性化している学校文化を微力でも是正していけるようなお手伝いができたらと思う。

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