欲望論と共同幻想論

現象学についての講座を開くにあたって、ルーヴァン大学でフッサール文庫の管理もされていたSebastian Luftさんの”Subjectivity and Lifeworld in Transcendental Phenomenology”を牛歩の歩みで読んでいるなか、日本で言えば榊原さんの『フッサール現象学の生成』のような、フッサールの草稿や未訳著作をたどりながらフッサールの思考を辿ろうという気概と挑戦を感じられる本をゆっくりじっくり読む日々を過ごしたいなと感じている、今日この頃。

某お世話になっている方からご質問があったので念の為、竹田青嗣さんの『欲望論』について、現時点での自分の所感をまとめておく。

竹田さんはご本人も悩まれていたらしいが、個人的には彼は自身に多大な影響を与えた吉本隆明さんの『共同幻想論』を無自覚に反復し続けているのではないかと思っている。実際、信念対立といった造語も、エロス、欲望、自由、社会契約、相互承認といった既存の学術概念の彼なりの解釈も、どこからその解釈が出てくるのだろうと首を傾げることが多い場面でも、共同幻想の言い換えと言う補助線を引くとスッとわかりやすくなる。

そのいみで既訳著作の中にあるフロイトのタブー概念に、同じく既訳著作の中にあるヘーゲルの方法を接木して造語を作っていった吉本さんと、竹田さんは同様に既訳著作のなかのニーチェの力概念に、既訳著作の中のフッサールの方法を接木して造語を作っていった竹田さんは論じ方もとても似ているように思われる。併読するとおそらくその印象はずっと高まるかと思うので、ご興味のある方は是非。

両者をよく見れば、日本の状況と合わせ鏡の自身の境遇を何とか言葉にしようと努力した人と言えるかもしれないけれど、公正を期してあえて言えば、悪い点として海外の概念をもとにしつつ独自の造語を新たに作り、自分がその学者の概念を全て理解したと感じて、海外に打って出るのではなく国内論壇の誰かの思想を乗り越えるために用いがちなところも似てしまっている。

竹田さんが欲望論で提起したという情動所与も、厳密にいえばすでにフッサールによって『イデーン』でヒュレーとして概念化はされている。それでもこの概念が大切だというには既存の一次文献、二次文献の参照と概念相互の比較と検証が大切になると思うのだけれど、少なくともご本人の著作の中にはそれもない。

学として探究する以上は、草稿研究をたどる欲求も必要も出てくると思うのだけれど、草稿研究を辿った形跡も見えない。弟子筋の岩内くんの仕事に竹田さんの超越論的現象学と既存の現象学や現代現象学はここが違うという区別の設定はあるのだけれど、竹田さんなりに解釈されたフッサールやハイデガーと実像との境を曖昧にしている状態でもなお竹田さんの論を現象学と呼称する必然性はどこにあるのかわからない(そのいみでは青学にいらっしゃる関根さんの『レヴィナスと現れないものの現象学──フッサール・ハイデガー・デリダと共に反して』のような精緻な研究を期待したい)。

むしろ欲望論は現象学というよりおそらく共同幻想論と呼んだほうが、ご本人の批評家としての系譜的にも実際の方法論的にも正しいかもしない、と個人的には感じている。

フッサールも、まるでカプセルの中に入って外界の感覚データまで自己の確信様相に変えてしまう態度を超越論的主観とは呼んでいない。竹田さんの欲望相関から真理の相対性を導きつつ共通了解や禁止を経て社会的な規範の相互承認へと積み上げていく論じ方は、ボルツァーノ由来の真理自体という概念を大切にしたフッサールよりむしろ真理をそうした確信=幻想に切り替えてその共同性(共通了解)を自分なりにブロックのように積み上げて社会全体の規範を論じる吉本さん的な方法論と似ている。

それを思うと、竹田さんがしばしば言われるように、フッサールの『現象学の理念』を読んで「フッサールがわかった!」と感じられたそのとき、吉本さんの共同幻想論を軸に解釈されたフッサール像が出来上がっていたんじゃないか、フッサールを通して吉本隆明を見ていたのではないだろうかと、考えてしまう。

ただ、そこでの「わかった!」を通すべく、すでにフッサール研究として積み上がってきたアカデミックな国内外の先行研究を引用して比較研究を行っていかない理由も、現象学とは違う道筋を歩んでいる自分の思考を現象学と呼ぶ理由も、アカデミックへのコンプレックスあるいはルサンチマンだったとしたら、それは国外から見ても国内から見ても、竹田さんを中心とする権威のテーブルでの信念補強型の思考にご本人の意思とは別に陥ってしまっていると映るのでは…と、草葉の陰からひっそり心配している。

竹田さんとその弟子筋の皆さんと仲の良かった加藤典洋さんもダイアモンド(どんな答えが来ても負けないことの比喩)であってはいけないと忠告されていたし、フッサールも小銭で払うこと(小さな問題を大きな原理で解決せず小さな回答を出し続けること)を美徳とするようにといっていたことを思うと複雑な気持ちでいるというのが、正直なところ。

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