教育現象学と、フッサール研究の拡がり

教育現象学教育における現象学的アプローチの広がりをドイツ、オランダ、アメリカそれぞれでみていくと様々なバリエーションがあり、それらを踏まえて自身のマキシン・グリーン研究につなげるにもやはり現象学、特にフッサール現象学を軸にしないとどの文献をどのように理解してバリエーションが展開されているのかを理解することが難しいと感じている。

いわゆる質的研究での現象学研究や実験現象学についてのサーベイはそれほど苦労を感じないのだが、教育思想として現象学を用いている場合に非常に困難を感じる。と同時に、倫理学、美学、道徳哲学、学問論、知識論、存在論、意味論、価値論、他者論、学習論、衝動論、情動論、規範論、教師論、子ども論などなど、さまざまなアプローチを見せてくれる魅力もあるのがなんとも厄介なところである。

そのなかで個人的に下手の横好き的に読むことを好んでいる著作がフッサールのそれで、遅まきながら原著も辿々しくも読み始めた。一部で「フッサール現象学では価値の問題をうまく扱えない」「術語がない」という議論があり教育界隈にも共有されてきているけれど、興味のある方はぜひとりあえず以下の著作群を読んでフッサール研究について自分も勉強中なので一緒に勉強しましょう、と伝えたい。

フッサールの既刊著作にあたる時間の余裕はないという方は、まずは『ワードマップ 現代現象学』を勧めたい。フッサールの価値覚としての感情に基づく価値論、そのほか現象学者たちの価値論についての議論が章を割いて展開されている点がありがたい。

  • 植村玄輝・八重樫徹・吉川孝(編著)『現代現象学 経験から始める哲学入門』新曜社、二〇一七年。

また、自分もまだ全部深くは読み込めていないのだけど、フッサールの倫理学、価値論、衝動論、情動論については以下の著作を。

  • 吉川孝『フッサールの倫理学:生き方の探究』知泉書館、二〇一一年。
  • 稲垣諭『衝動の現象学:フッサール現象学における衝動および感情の位置づけ』知泉書館、二〇一七年。
  • 八重樫徹『フッサールにおける価値と実践 善さはいかにして構成されるのか』水声社、二〇一七年。
  • ナミン・リー(著)中村拓也(訳)『本能の現象学』晃洋書房、二〇一七年。

吉川さんの著作は発展史的な整理でじっくりと追っていくことができ、フッサール自身がどのように「生の価値」をめぐって「職業的な生」から「倫理的生」を目掛けて自分自身の学究を行っていたかがしみじみ伝わってくるような印象。博士課程の頃に読んで、それまで自分の感じていたどことなく機械的なフッサール像がとても人間臭くなってきて、母子の愛やあたかも不死であるかのようにして目的を持って生きること(ガンジーのよう)について論じていたところにも衝撃を覚えたのを記憶している。

八重樫さんの著作はこの初期から晩年までの展開を視野に入れながら、主にフッサールの価値論に焦点を当てつつフッサールの師匠であるブレンターノの価値論との差異からフッサール自身の道徳哲学について体系的に吟味できる。感情と評価作用の関係性から、使命や愛(触発)による価値の把握に移り、次第に「よく生きること」を目掛けつつも実際には揺れ動きや幻滅、死を経験せざるを得ない有限な人生を生きる人間にとって、人生の無意味さが問題になる現実の事態について一個一個問いを深めていくあたりがとても丁寧で、本のサイズ感も手伝ってかまるで良質な中編小説を読んでいるかのよう。

「何かを、あるいは誰かを、一貫性をもって愛している人にとって、彼が愛している当のものは、他人にとっては取るに足らないものであっても、現実に愛するに値するものなのである。他の種類の価値と同じく、ここでも、主体に相対的であることと客観的であることが両立する。
この意味で「愛するに値するもの」をもち、それにかかわる活動に打ち込んでいるとき、人は「そんなことをして意味があるのか」という問いに対して、「ある」と断言することができる。このとき、その人の人生は実際に生きるに値するものになっているとはいえないだろうか。自分にとって本当に愛すべきものをもつことで、人は永遠の相のもとでは無意味な人生を、生きるに値するものにすることができるのではないだろうか。」(八重樫, pp.253-4, 強調箇所は原文では傍点)

また、リーさんの著作はすでに93年にフッサール草稿の丹念な研究から衝動志向性、本能志向性の議論がフッサールの静態的現象学から発生的現象学への移行にとって重要だったことを発展史的に明かしているし、稲垣さんの著作はこの議論を参考にしながらフッサール現象学の意識概念の展開それぞれにおける感情・衝動の位置付けについて体系立ててくれている。

個人的にはいわゆる志向(教育学的に身近なトピックで言えば思考・判断・表現)とその充実が、乳幼児期の「やみくもに身体が動くことの喜び」から「手足を動かす際の物体の運動における喜び」へ、つまり感情の発露が伴う身体運動への「努力」とその「充足」にと考えられていたという辺りなどは(189頁)、ホワイトのコンピテンスの議論との親近性もあり教育関係者は「おお!」と思わずにいられないだろう。

「生とは、志向と充実の多様な形式および内実における努力である。つまり、充実においては最も広義の意味で快感が、非充実においては快感へと向かう傾向が、純粋に欲情する努力として、もしくは充実的現実化において解放される努力として〔存在し〕、それらは快感がそれ自身のうちで解放される生の形式の現実化プロセスにおいて成し遂げられる」(稲垣, 2017 p. 189から孫引き)

フッサールの『イデーン』で展開した超越論的現象学と、『論研』時の記述的心理学としての現象学の理解には以下の2つの著作を。個人的には佐藤さんの著作で議論されていた観念論W,Sの分類を通じてフッサール超越論の理解がとても進んだし、植村さんの著作はボルツァーノの真理自体の考え方と志向的体験についての理解が進んだ。と言ってもそもそもこの認識で合っているのかまだまだ心もとない。フッサール研究会や植村さんらが世話人として活動されている瀬戸内哲学会のワークショップがあればすぐオンラインで参加して勉強している次第。

  • 佐藤駿『フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学:『論理学研究』から『イデーン』まで』東北大学出版会、二〇一五年。
  • 植村玄輝『真理・存在・意識:フッサール『論理学研究』を読む』知泉書館、二〇一七年。

各国に広がる教育現象学をいつかきちんと調べておきたいが、いつになることか。ようやく仕事をしながら作成した自身の投稿論文の一本目が形になりそうだけれど、掲載されるかは言うまでもないが不確定だ。余談ながら、フッサールが42歳まで給与のない私講師だったということ、そしてその苦難の時期に孤児院のファサードに書いてあったイザヤ書40章31節の一節を自身の支えにしていたということを最近論文で知り、勝手にシンパシーを感じている。

大戦の最中に子どもを失い、反ユダヤ主義の人々から教授職につくときも着いてからも苦難を被りながらも、草稿とはいえ膨大な量の言葉を書きながら尋常でない思考をたった一人行っていた一人の人間への尊敬と労わりを、持ち続けておきたいと思う。

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