垂直的承認の困難

推論主義について知りたいと思って、『ブランダム 推論主義の哲学』(白川晋太郎・著)を拝読した。文章も洒脱で面白く、推論主義から世間の面倒さに焦点を当てていく独自性も興味深かったし、すでに事例も報告されているように推論のネットワークに基づく言語使用から意味の規範性(この言葉はこの意味で用いるべきとする社会的ルール)について明らかにしていく点で教育学(特に教科教育)への応用が効きそうで、まだ全てしっかり把握したとは言い難いながらも自分自身いろいろと応用可能性の妄想を膨らませていくことができた。

ブランダムはニュープラグマティズムの旗手で、近著としてヘーゲルの『精神現象学』を自身の提起した推論主義(inferencialism)から解釈した相互承認論などを論じている『信頼の精神』(A Spirit of Trust)がある。一度ツイッターか何かでその大著ぶり(800頁超)を拝見して以来いつか読みたいなと思っていたのだけれど、白川さんの著作での解題を読むにかなり教育学的にも重要な議論をされているのだなということがわかってありがたかった。

特に、相互承認モデルがそのままでは無限後退に陥るという点は身近な実例も含めて確かにと頷いた。相互承認モデルは端的に言えば、AさんがBさんの資格を承認し、BさんがAさんの資格を承認する、つまり自分は相手の、相手は自分の資格を承認しているということを、AさんとBさんが互いに承認しあっているという形式が基礎となる。

相互承認の一つの具体例は「契約」だ。例えばAさんがある企業の経営者Bさんの書いた社員募集のチラシに書いてある必要な資格や労働形態の欄を見て、これなら自分も働けると思ってやってきて、履歴書などを元にBさんに面接してもらい、契約を結ぶことで働き出せるという今や日本でも日常的になったやりとりを思い出してもらいたい。これはいうまでもなく、法のもとにAさんに労働する権利と資格、Bさんに雇用する権利と資格が付与されているからできることであり、法の下の平等がなく生まれ育ちで一生の資格と権利を決めて、個人の自由な生き方を簒奪していた数百年前の封建主義時代には考えられなかったことだ。

しかし現代においてもすぐ思いつくように、互いに法的な権利や資格を持っていると認め合っていても先に進めないことがある。相互承認は法のもとの自由を持つ権利的主体として互いを認めあうという近代の出発点ではあるけれど、その後のゴタゴタをどうするかという問題は、ヘーゲルも考えた通り単に法のもとの自由を確かめ合ってお互いの自由を認め合っても、なかなか前に進めない。同じ法的・権利的主体でも、経営者としてのAさんと労働者であるBさんにはそれぞれ異なる資格・権利が与えられていくが、労働争議などに見られるように、互いの権利を尊重した上での調整はむしろ必須だ。

そこから先は、岡山大でヘーゲル哲学を通じた社会哲学の研究をされている竹島あゆみ先生の議論を参考に述べるなら、自由かつ平等に同じ権利と資格を持つとみなしあった個人同士の「水平的承認」から、自由で平等な権利と資格をもとにそれぞれ異なる専門性や役割を社会の中で獲得していくことで生まれていく、指令を出す人と従う人というような異なる権利と資格を持つ人々からなる社会全体の中での「垂直的承認」の可否も問われてくる。

例えば、ある会社のある部門で働くCさんは自分と同等の資格を持つ同じ部門の人々からその仕事の良さや正しさを承認されており、その意味で十分に仕事を行なっているし、会社全体のために正しいことをできていると思っているとしよう。そして、他の部門の人たちも、同様に感じているとしよう。

一見この会社では万事がうまくいくように思えるが、資格を分け職能を分けて行く部門化(分業と専門化)のすえに、逆説的に他の部門の仕事の良さや正しさを判断できる専門性がない人たちが同じ会社の中にどんどん集まってくるという事態が起きてくる。

すると、ある部門がよそから見れば悪いことに見えても実は良いことをしていたり、一見良いことをしているように見えても実は悪いことをしていたりしても、その正しさや悪さをきちんと判断できる資格がその部門に勤めている人たちにしか与えられなくなっている以上、部門を超えて互いの実践の正しさを相互に承認しあえることはどんどん難しくなっていく。

そして「よそからどう言われようと、うちはずっと良いことをしている」という内輪の確信によって、部門の内側から見れば善でも、会社全体的には「偽善」であるような実践が維持されていく。すると、うちは良いことをしているのに、他の部門の人々が悪いことをしているので会社全体が悪くなっていくという議論を「誰もが」するようになっていく。

こんな状況でいかに部門の上下(垂直性)を超えて互いの資格とその実践の正しさを吟味し、互いの誤っているところを指摘しあえるのか、そして互いにその過ちについて指摘する「資格あり」と承認しあえるのか。これが問題だ。そしてこれは本当に企業経営、組織経営でもよく問題になることだなと、末席ながらベンチャー、メガベンチャー、NPOなどの組織で働いたことのある身として実感する。

しかも、上述の文章の「部門」を「産業」に、「会社」を「社会」に変えれば国家内の社会経済システムについて、また「部門」を「国家」に、「会社」を「大陸」などに変えれば国際情勢について当てはまることが理解できると思う。

これらの垂直的承認の困難は、ブランダムの推論主義の考えを参考にするなら、自身の誰々の実践を正しいとみなす態度を超えて、過ちを修正できる可能性をいかに担保するかといういみで、「態度超越性」や「客観性」の問題として議論できるものと考えられる。結論から言えば、結局は外部の人を巻き込んだとしても(時代的な限界などを含め)絶対的な知識の正しさは現時点で誰も保証し得ない以上、相互承認は常に2者間を超えて拡張していく歴史的な運動性を持たねばならない。内輪で「これは戦争でなく、軍事作戦だ」と相互に承認できたらその実践の正当化は終わり、には決してならない。

その拡張の方策として白川さんの著作で挙げられているものとしては2つある。1つは、例えば人は(自分を単に認めてくれる人でなく)本当に資格を持つ人にこそ承認してもらいたいと願う「承認欲求」があるという概念をおくことで、2者間で相互承認を洗練していく根拠をつくる。もうひとつは、今の私たちが過去の人たちにとって正しいと思われていたが実際は誤っていた実践を思い出すとともに、未来の人たちにも今の私たちにとって正しいと思われていたが実際には誤っていた実践を思い出してもらえるようにしておく。

つまり、その推論がどのように間違っていたかを「発見」し、過ちを「修繕」(repair)し、その修繕したことを含めた過去の過ちを実際に起きた「歴史」として「想起」(recollection)してもらうこと、そしてその過ちを過ちとして認めた上で時代を超えて互いに「赦し」を行うという「倫理的態度」を醸成していくことによって、相互承認を拡張していこうとする。

後者の「修繕」と「想起」はデューイ的には探究そのものであり、倫理的態度の醸成に至ってはもうコミュニケーションの様々な障壁を取り払っていくプロセスといういみで教育そのものと言えそうだ。しかし近代教育の器としての学校もまた一つの近代社会であり、近代的社会制度である以上、教育委員会、管理職、教員、あるいは理事、管理職、教員というような垂直的なシステムはしばしば生み出されてしまう。その上で、互いにその地位に立つ資格と権利を相互に承認できるかという「垂直的承認」の困難は常についてまわるだろう。

つまり、子どもが相互承認についての教養を身につける以前に、そもそも近代の分業社会で生きる人々誰しもがその垂直的承認を行うことのできる知識や態度を身につけること自体、制度的に困難なのだ。さらには、教育システム内部に限っても学歴や偏差値などの垂直的な格差を設ける伝統的評価観を背景に、教育格差が広がり続ける一方だ。

社会システムの方を見ても、市民相互の水平的な承認を維持するために設けられたはずの垂直的な社会システムが、まわりまわってその垂直的な社会システムの特権的な地位に立とうとする権威主義的な政治家や経営者を生み出してしまい、その地位に立つ「資格」を問うことが国民や職員にとって困難になる社会システムをこっそりと作り出してしまうことすらある。

2つの大戦に見られたように、法的な平等のもと選ばれた国の運営者が、デマや扇動、思想弾圧を介して社会システムを誘導し、数多くの実務にあたる兵士として子どもも若者も等しく徴兵し、特定の民族集団や職能集団を排除したのは敗戦国でも戦勝国でも等しく起きたことだ。ポストモダンの思想はこの水平的承認を生み出す「法」もまたひとつの暴力であり、それによっていかに垂直的な不平等(承認の拒絶)が隠されやすいかを明かしている(ex. ベンヤミンからデリダのルート)。

弱肉強食などの誤った自然主義的な思想(実際には自然の中には弱肉強食の単一のヒエラルキーがあるのではなく、循環的で調整的で多元的な生態系がある)を退けつつ、生存権を相互に承認しあう「市民」と、その生存権の部分的放棄を相互に承認し合うことになる「兵士」という矛盾する存在を社会の中に同居させる、法の垂直的な社会システムを生む暴力性をも、考えなければいけないのである。

竹島先生の論文にあるようにヘーゲルもまたこの垂直的承認の困難を前に、もはや承認ではなく自身の過ちを自ら告白し、互いにその過ちを赦し合おうとする「和解」というキリスト教的概念に訴えていたことや、その後のハーバーマス、ホネット、ブランダム、ピンカード、ピピンなどの承認論の深まりも併せて考えていかねばならないのだが、この垂直的社会システム自体がもつ困難を単に垂直的な格差のある立場にある個人同士が相互に承認し合うことを切り口にしても前に進めないということだけは言えると思う。

2022/2/25追記:元のポストは「相互承認はなぜむずかしいか」だったのだけれど、ロシアのウクライナ侵攻を前にして、改題し、加筆修正した。

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