ブルーノート、と聞けば、青山にあるあの青いドアが思い浮かばれる。高校時代に学校をサボっては岡本太郎美術館に何度も行ったその道すがら、そのドアをくぐり抜ける日を夢見ていたものだった。と言って、まだその夢は実現していないのだが。
このドキュメンタリーが描き出しているのは、アフリカン・アメリカンの若者たちがなぜジャズをしていたのか、その音楽に惹かれてアメリカにドイツから亡命してきたユダヤの血を引く二人の男性がなぜジャズ・プレイヤーたちに「自由」を与えていったのか、そしてそのジャズの文化がいかにヒップホップに受け継がれているのか、だと感じた。
ジャズではプレイヤーの一人ひとりにソロがある。ソロがあるだけでなく、ともに音楽を奏でコミュニケーションをとりながらも、互いに独立したリズム、メロディを生きることができる。たとえ誰か一人がミスをしてしまったと思っても、それを楽曲として正当な流れに変えていくことのできる、即興的でコミュニカティブな「生き方」としてのジャズがそこにある。
ジャズがそのような音楽を紡ぎ出した背景には例えば、スラムが即興的でコミュニカティブな生き方が求められる場でもあったということもあっただろう。であればこそプレイヤーたちは、ジャズをプレイしたかったのかもしれない。そうした場から匂い立つ危うい香り、行き交う人々の言葉の温度、通り過ぎる風の冷たさ、総体として浮かび上がってくる喧騒を、往時も現在もクラシカルな音楽に感じ取ることは非常に困難だろう。
ジャズには「自分の生活」が活写されているという感覚。一音楽ジャンルとしてのジャズではなく、「生活」を活写するものとしての、いわば人文学としてのジャズ。一つひとつの楽曲がどのような生を活写しているものであるかという問いを手元に置きながら楽曲を注意深く聞いていくなら、その音の流れの根底でゆらぎようなく露わになっていく、プレイヤー自身の人間性の確かさ、不確かさが現れてくるように思われる。
この映画を視聴しながらその人間性について非常な感銘を受けたのが、遅ればせながらというべきだろうが、セローニアス・モンクだった。生活の活写というよりもただ自分自身でいることを謳っている楽曲の流れの中に、こちらを感動させようとしたり次の楽想を予期させておいて導こうとしたりするような、他者を音で支配しようとする感覚が微塵もない。
自分達のルーツ、自分自身が歩んできた道のりに広がっていた風景に単なる郷愁でなくアイデンティティを根付かせながら、他者を支配の対象とせず互いに替えの効かない自己を生き合うということは少なく見積もっても民主的な社会にとって重要な態度だ。スターバックスなどの巨大なコーヒーショップで流れてくるジャズ風の音楽を、単なるバックグラウンドミュージックとして受け取るのはもったいない。アメリカ近現代社会の生活を想起したり、ひいては自己の生き方についての哲学を教わってみたりするのも、一興ではないだろうか。