【日記】ぼうっとする、表現されたものから表現するものへ移り変わる

時折、世界は言葉で表現されたものでできている、と暗黙理に信じているような言葉や態度を人から受け取ることがある。表現されたもの、という言葉じたいも曖昧なものだけれど、方法、思想、哲学、技術、実績、実践など、言葉で記述され言及されたものの総計でこの人間の浮世は出来上がっていると思われている節に、私はしばしば窮屈さを感じる人間の一人である。

例えば教育の事例について話している折に、事例を伝えてもうまく話がつながらないとき、そうした節にしばしば出会う気がする。その人にとってはあまねく事例にはなんらかの主義や方法に分類されるべき名前が存在しており、人口に膾炙している必要があり、周知のものであることが前提となっているためか、世の人に知られておらず辞書にも登録されていないものは、社会的には実在しないか、実在しても取るに足らないものと思われてしまう。

表現されたものからなる、くっきりと分けられた言葉の世界、ラベルやカテゴリーから構成された世界が所与のものだと捉えられていると、そこからはみ出るような何か、あるいは、表現されたものに覆い被さるような何かによって、表現されたものがその他の表現されたものと重なり合って積層し、次第次第に堆積していく人文学的な過程すらもこの世には実在しないと言われているような気が、少ししてしまうのである。

その一方で、そうした重なり合いの過程を愛する人々のいることは、私にとっては恩寵だ。心強いし、何よりありがたい。そしてそうした人々に通底しているあり方は、失礼に当たるかもしれないが、総じて時事に耳をそばだてて社会に走る亀裂を目の当たりにし、自他をどのように活かしていくか緊張感を保ちながら身を処しているにも関わらず、基本的には「ぼうっとしている」のである。

いや、「ぼうっとしている」からこそ、そうした亀裂に対するバランスの取れた緊張感を保ち続けることができている、と言った方が良いだろう。「ぼうっとしている」と、表現された言葉からはみ出すもの、そこに収まらないもの、そこから抜け出していくもの、そうしたさまざまなものが持続的に重なり合っていくこの持続を、観察することができるためだ。

いま、一つの木に止まっている鳥をぼうっと眺めているとしよう。その視界は次第に鳥だけでなく、木の肌の姿、葉のざわめき、風の方向、その変化、見つめていた鳥が飛びたった後に、また訪れた別の鳥の姿、その鳴き声の違い、など、さまざまな感覚とそれに応じて浮き上がりする感情の流れをもたらしてくれる。

この持続の経験を通じて私が経験しているものは「一本の木」でしかないと、どうして言えるだろうか。私はこの持続の経験を通じて、さまざまなものが、あるとき表現されたもの(一本の木)にとどまらない変化を与えに訪れ、去り、変化していくさまをもみているのだ。

そしてぼうっとすることは、表現されたもの(この場合は「木」)を起点としながら、その表現されたものの持続を見つめることを通じて、次第に表現するものへと自分が移り変わっていくことを経験することでもある。私は子どものように木を眺めながら、木に起きたその時限りの変化を、手持ちの言葉──かつて誰かによって表現されたもののまとまり──を用いて、新たに表現していく。

ここに初めて、表現するという行動、行為が生じ、表現の取捨選択や創造が生じる。あの持続の経験を、適切に表現するにはどのように「表現されたもの」を編成し、位置付け、編み変えるかについて判断し、その表現の意味するところをまるで仕立て屋のように、持続の経験に合わせてオーダーメイドに仕立てていくことが求められるためだ。ぼうっとすることは、かつて表現されたものから表現するものを生み出す、得難い機会なのである。

このことは何も、自然物についての表現だけには限らない。社会の構造上に走り続けている亀裂は、クローズアップして見つめ続けるとどこに断裂が起きているのかわからなくなり、俯瞰で見つづけるとその亀裂も所詮数ある亀裂の一つとして捉えることに慣れてしまう。

その亀裂が走るその瞬間だけでなく、その数ヶ月、数年、数十年単位での持続を見つめるには、私見では適度にぼうっとすることが必要で、ぼうっとするためには、常にさまざまな──社会的、経済的、政治的──諸力の只中でバランスを取り続ける胆力が求められる。

胆力がなければ、亀裂の瞬間的なスナップショットを誰かが表現した「表現されたもの」だけがこの世に実在するものだと思い込んでしまう。表現されたものの周りで覆い隠されたものがその尻尾を出す瞬間を過たず逃さずに見つめるためにも、適度に「ぼうっとする」ことができることは重要な資質の一つとすら言って良いのではないかと思う。

私たちはしばしば、ものをじっと見ているようで見ていない、何かについて考えているのか、何も考えていないのかもよくわからない様子を、ぼうっとする、と形容する。この擬態語そのままであるかのような副詞は、よくよく考えてみるとなかなかに不思議な言葉だ。

「ぼうっと」の意味するところは、「不意に火の燃え上がるさま」(精選版日本語語辞典)。この辞書製作者の定義そのものがまず素敵だと賛辞を捧げたい。確かに、ぼうっ、というその音を聞くだけで、黒々とした闇の中に勢いよく炎の灯るさまが思い浮かぶ気がする。用例には浄瑠璃『八百屋お七』(1731頃か)上での「あかり障子がぼうっと燃へ」とあり、障子に火が不意に燃え上がった、ただならぬ状況を形容した言葉であることがわかる。

ぼうっと、のもう一つの意味合いである「ぼんやりしているさま」を示した用例に、樋口一葉『にごりえ』(1895)の「自分の心も何もぼうっとして物思ひのない処へ行かれるであらう」とあるのを見ると、こちらの使い方の方が火の燃え上がるさまを表す「ぼうっと」より後、およそ百年以上の時間を経て開発されたものなのだろう。

火急の事態を形容する言葉が、先に述べたような曖昧な心身の状況を表すになぜ至ったのかについては、日本語学者の方にいつかお伺いしてみたいが、この「物思いのない処」へと自ずから進んでいく「ぼうっとする」時間を持つことは、自身の脳機能を上げるかどうかということに限らず、この社会において存外に重要なことなのではないかと思うのである。

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