【日記】異言語との出会い

海外の文献や国内外の古典を読んでいるとき、ほんの少しだけ自由になれる。最新の議論を取り入れるのに躍起になっている渦の中から離れて、遠くの場所から、自分の今いるところを眺められる、そんな気にさせてくれる。もちろんその文献の中にも、当時の様々な思惑や政治の渦の痕跡や苦闘、苦悶の筋は見える。けれど、今自分たちが使っている言葉のしがらみからほんの少しだけ解き放たれて、言葉そのものが持つ本来の重みを確かめることができるような、そんな機会を与えてくれるような気がするのである。

そんな得難い機会を与えてくれるものと思っている身としては、異なる言語に身を晒すことや、自国語であってももはや自分の日常親しんでいる言葉とは異なる身振りを見せる言語に親しむことを避けてしまう態度に接すると、少し物悲しい気持ちになる。異国の議論が最新であるかとか、自国の作品が歴史的に見て特筆に値するものであるかとか、そういう新旧優劣のものさしで測ることはできない経験がそこにはあると思うのだ。

異なる言語や自分とは異なる言語の運用と出会うということは、自分の言語の編み目をいったんときほぐさなければできない以上、自分が用いていない異なる言葉の方から自身の言語の編まれ方を見つめ直すということにつながる。それは自分の用いている言語のどのあたりが「凝って」いて、どのあたりが「疎か」であるのかを確かめるということであり、自分の感受性を受けとめて支えてくれる言語の編み物の点検をするようなものでもある。同様に、自分の保持しているらしい知識の疎密を、文献を通じて確かめていくこともまた、自分の理性のしなやかな運用を可能にしてくれる言語の編み物の定時点検をしていくようなことであると思う。

自他に寛容であるためには、正確に知ることと精密に感じることを精緻に協働させねばならない。物事について正確に知り、他者の感情や感覚を精密に辿っていなければ、人を褒めることも叱ることも、決断に対し諌めることも肯うことも、意見の均衡を探ることも、袂を分つことですらも、本来なかなかできないと思うのである。もしそうした感受性と理性を精緻に協働させないまま協働や分派がなされるとすれば、それは単に自我の拡張の手段として他者の意見を秤にかけているに過ぎないと思うからだ。

自分の言語を他者の言語に開き、つねに相照らしていくというこの極めて素朴な、どの教育にもどの手法・技術にもどの思想にもどの哲学にも還元できないような「あり方」になんらかの主義の名やラベルをむりくりつけることもできるだろうが、このあり方はそんな名付けすらできないほどに素朴なあり方だと思われる。そしてこのあり方を、異言語との篤実な出会いは育む。自分とは異なる言語であればこそ、その正確な運用を知らなければならないし、その運用にあたっての感情の動きを精緻に辿っていく必要が出てくる。私はこの過程を一層好む。

もっと実用的に、異なる言語でコミュニケートすることができたなら、もっと多くの人と、より多くの物事と触れ合うことができるという利点があるということを指摘することもできるだろう。その利点は、読めるが話せないという、典型的な日本の英語学習のくびきからまだ外れていない私にとっても非常に自分のものとしたい利点でもある。けれど、それ以上のものが異言語との出会いにはあるのだということを伝えたいと思う今日この頃なのである。

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