【日記】トランペットの音色

中学・高校と、友人が入部するという成り行きで入ることにした吹奏楽部で、当初は打楽器を担当したかったのだけれど、中学では数少ない男子部員にトランペットを担当してほしいという先輩たちの要望に応え、高校では数少ない経験者ということで再びトランペットを担当することになった私の実力は、どう贔屓目に聴いても下手そのものであって、いうまでもなく先輩たちの願いも叶えることはできず、同期の期待や発破にも応えられず、後輩の尊崇を集めることも叶わなかった。高校時代には親に無理を言ってバックのトランペットを購入してもらったというのに、哀れそのトランペットは三年の間(私のせいできわめて不恰好に)活躍したのちは黒いケースのなかで眠り続けており、引越しのたびに連れ歩いてはいるものの、今では書庫の隅に追いやられてしまっている。掃除などの折にその侘しい姿を見るにつけ、心の中ですまないと両の手を合わせる日々が続いている。

街中でふいにトランペットの音色を聴くと、演奏時のように背筋を伸ばし姿勢を正さねばならないような気がしてくるし、そんな礼儀正しい姿勢をとってはいても楽譜から要求される音が出せないまま楽曲が進んでいくときの我が身の居た堪れなさ、観客への申し訳なさ、そして悔しさがあたりを取り囲んでくるような気がしてしまう。それもあって、トランペットの聴こえてくるような楽曲に自ら触れようとすることは大学に入学するとともに一層稀になっていった。大学院に進学し美術教育の研究の真似事を進めていくうちに、理知的でいながら感情の振り幅が激しく、一見合理的な言葉が紡がれているようでいて全く直観的な論理を展開し続けるカンディンスキーがその著作『芸術における精神的なもの』のなかでトランペットの音色をおそらく共感覚的に「黄色」として体験しているのを目にしては、苦々しい記憶が蘇ってくるのも私にとっては避けたい出来事であった。

しかし近頃不思議なことには、トランペットのあの滑らかで輝くような晴れやかさで広がり、一音一音が細やかに泡立ち消えていく息の触感を耳にするたび、初めてその音色を聴いた時の心の昂りの方が想い出されるようになったのである。初めてトランペットという楽器の音色をきちんと聴いたと感じたのは、先輩たちの音色やコーチの方々の音色からではなく、中学時代、これを理想とするようにと入部当初に貸し出されたCDに収録されていたプロの音源を通してであった。三つ、四つほどの楽曲が収録されていたかと思うのだけれど、具体的な楽曲名も演奏者名も覚えていない。そんな中で唯一記憶に残っているのは、そのCDのジャケットで銀色に輝くトランペットを手に、ジャコメッティの彫刻のように垂直に屹立して燕尾服を纏っていた男性による、『グリーンスリーブス』である。

なぜそれだけが記憶に残っているのか、自分でもよくわからない。中学一年の時分、その定番曲をお下がりのCDプレーヤーで布団にくるまり寝入り端に聴いて心を文字通り持って行かれたような衝撃を受けたのだけれど、カセットテープに入れて先輩に返却したあとは数回聞き返した程度であったと思う。さらに私の中学時代は次第にカセットからMDに移行していく時期にあたり、その後聞き返すことはほとんどなくなった。にもかかわらずと言っていいだろう、高校時代に生徒以上に吹奏楽なるものへの情熱を持って取り組んでいた顧問の先生からCDを貸しだされ、来日時にはありがたいことにチケットも購入してもらい拝聴することのできたセルゲイ・ナカリャコフの、絹のように空間に広がりながらどの音も孤立することなく豊かに編み上げられていく音色よりも、トランペットの音色を聴いて重ね合わせてしまうのはやはり、あの『グリーンスリーブス』なのである。

『グリーンスリーブス』自体の素朴だが艶のある、郷愁を誘う旋律に魅せられたことは確かなのだが、中学二、三年のころにサイモン・アンド・ガーファンクルの『スカボロー・フェア』を聴いたときの衝撃とその歌詞の木霊のように響き合う反復の優美さによって、次第に前者の衝撃の色合いが失せていったように思い出される。中学生なりにどちらもどこかとても似ている(そして個人的には後者の方がより素晴らしい)と直観的に感じたのだろう。今更にこの日記を書くにあたって双方の楽曲について検索をかけてみたら、どちらも一六、一七世紀イングランドで華やかに展開されたバラッドの一つであったことがわかった。

イングランドは平原を織りなす曲線からなると述懐した明治期の哲学者がいた気がするけれど、その草原の上を流れていく無常の風に添いつつもどこか人の情による抗いを残すかのように紡がれていくバラッドの旋律が、草原といえば近隣の県立公園に人工的なそれがあるのみで、他はドミノのように押せば倒れ続けてしまいそうな直方体の団地や住宅が立ち並ぶ埼玉の郊外に生きる一人の中学生男子に感慨を与えようとは、近世の鳥羽口に立っていた吟遊詩人たちも想いもよらないことだったろう。

iTunesで検索し懐かしい旋律を聴いていると、恥ずかしいことではあるが、『グリーンスリーブズ』に歌詞のあることを約二十年越しに初めて知った。タイトルで検索して拝見したサイト『世界の童謡・民謡』に掲載されていた英詩とその意訳を一読して、私はあのトランペットがこの歌詞を読ませるためにこの日記を書かせたのではないかと疑ってしまった。

Alas, my love, you do me wrong
To cast me off discourteously
For I have loved you well and long
Delighting in your company.

Greensleeves was all my joy
Greensleeves was my delight
Greensleeves was my heart of gold
And who but my lady greensleeves.

ああ愛する人よ、残酷な人
あなたはつれなく私を捨てた
私は心からあなたを慕い
そばにいるだけで幸せでした

グリーンスリーブスは私の喜び
グリーンスリーブスは私の楽しみ
グリーンスリーブスは私の魂そのもの
私のグリーンスリーブス、貴方以外に誰がいようか

緑の袖(Green Sleeves)が何を意味するのかは、正確にはわかっていないらしい。複数ある解釈のうちの一つによれば、「緑」は「不倫」を意味するものでもあるようだ。とすると、それまで本といえば漫画か攻略本くらいにしか見向きもしなかったのに、高校時代に心を射抜かれて以降書籍を積み続けている私を、ぽっと出の不倫相手にうつつを抜かしているものと、あの金管楽器は今も私のことをケースのなかから批判的な目で見つめているのかもしれないなどという空想が、草原とは程遠い丘陵地帯に蟄居する私に訪れてくる。

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