【日記】確定申告のあとに

憔悴しながら取り組んだ確定申告の作業がようやく終わりを迎えた。個人事業主になって本格的な確定申告は今年が初めてであったため、基本的な会計知識が間違っていないか再確認しつつ書類を作成して言ったところ、ほぼ擦り切れた布のようになりながら書類をポストに投函したのだけれど、確かに個人事業主の先輩でもある友人の言うように、この営みは一年という時の流れを振り返るとてもありがたい機会でもあるとの認識を新たにした。この一年間の自分の仕事、研究に価値を見出してくれていたのは、取引先という簡素な用語ではあるけれど、そこに並ぶ一つ一つの団体や企業体の皆さま、一人ひとりの参加者の皆さまに他ならず、自分はこれらの人々と関わることによって生きて、生かされてきたのだということを想い起こさずにはいられない。この場を借りて改めて感謝申し上げたい。

気が早いと言われればその通りなのだけれど、申告の作業をしている最中に、この日には申告を終えているであろう未来の自分へのご褒美として、堀江敏幸さんの著作を数編、手元になかったものを新たに購入していた。『回送電車』のⅠ〜Ⅳ、『雪沼とその周辺』『熊の敷石』『もののはずみ』。ほとんど家に篭りきりで、近隣にも図書館や本屋がない土地に暮らしているため書籍の購入はアマゾンなどでの販売に頼り切りになっているが、本という文化的蓄積のお陰で日々を暮らし生きているものの務めとして、勝手な気負いかもしれないがオンラインでの購入だとしてもなるべく古書店や書店から購入するようにしている。そうした書店から送り届けられる書籍たちは、その梱包などの仕方にその書店に生きる人々のありようが少し垣間見える気がして、段ボールの表面でほくそ笑む密林からの使者にはない人間味が感じられる。

昨年『群像』の新人賞に堀江さんの散文について論じた拙稿を応募したところ、一次選考に残っていたのを本誌で確認した時は腰を抜かしそうになりつつ、ひとまずの及第点をもらえたようでとても有り難く思ったのだけれど、やはり堀江さんの著作を読み返していくほどに自分の執筆したものではまだまだ届かない感受性の境位を感じてしまう。言葉にしようとすればできるのかもしれないが、その言葉が自分の感じているその感受性の有り様を包含するほどにはこちらの言葉の肌理が細かくなく、すぐにその隙間から漏れ出してしまう、そんな気がする。

研究や仕事という足場を曲がりなりにも持ちながら、なぜ批評という試みにも足を突っ込むのかと問われるかもしれないが、私にもその動機は正味なところよくわからない。わからないなりに思うところを挙げてみろと言われれば、自分が拙いながら取り組んでいる芸術や教育、哲学が眼差し、触れて、開かれていくべき感受性の境位は、感覚的にも感情的にも整理のつかない魅力を放っている何かのなかにおそらくはあるのであって、そしてその何かに対して自力の制約もありさまざまな迂回路を挟みながらなんとか自身の感受性と理性で接近しようと試みているこの営みが、結果として批評と呼ばれたり研究と呼ばれたり仕事と呼ばれたりするのじゃないだろうかと、応えるのかもしれない。

その意味では、研究も批評も自分にとってはそれほど違いはないのかもしれず、ひいては仕事で行う大人たちとの対話においても私はおそらく同様の心持ちでその場に立っていることを思うと、上述したことは私が常に意識し目掛けている「出来事」なのかもしれないとも思う。世代を問わず年齢を問わず、人がこの世で唯一のその身体と心とで歩んできた人生の道程を、瞬間、言葉や振る舞いの鏡に反射し得た時に感じられる、あのなんとも言えない感情の蠢き。単調な喜びや悲しみというのでない、その人の生きてきた現実感覚が打鍵となって複数の感情が同時に鳴り響き、他の人々のそれと心地よい不協和音を伴いながら共鳴している最中に気づかれる、それぞれの音の調子や質感の微細な異質さの再認。

一人の人間がある程度独立して生きていくだけでもあまりに大変で疲れてしまう世間のありようではあるけれど、それでも上述のような出来事に他者とともに出会うと、そこはかとない感慨に浸ることができるだけでなく、こうした出来事を通じて自身の、また他者の物事に触れる機微もいくらか変質して、互いに不協和でありながら共鳴していることのありがたさを感じ取っていく身体の涵養にもいくばくかの貢献ができているのではないかと思えて、自分の生に少しばかりの徳を積むことができたのではないかと感じられる。

須賀敦子さんの『コルシア書店の仲間たち』の扉に引用されている、須賀さん自身の訳によるウンベルト・サバさんの詩にあるように、「人生ほど、/生きる疲れを癒してくれるものは、ない」。この詩は文字通りに受け取っても素晴らしいだけでなく、人生こそが生きる疲れを増やしていく根本的な原因そのものであるということをその前提におきつつ、にもかかわらずという逆説の音階を響かせてもなお感慨に浸ることのできるところにその妙がある。

たった一人の人生が、それこそ数十億年の自然と、数十万年のヒトの蓄積に下支えされているだけでなく、良かれ悪しかれ同時代の数多の人々の人生とそれによって築き上げられたさまざまに異質な諸文化が織り合わされて成立し得ていることの感慨には、その生の重荷を運ぶ宿命を同じように担っている同類同士で相憐れむような悲嘆的なものも背景にはあるのだろうが、それ以上に上述のような稀有な出来事に出会うことのできたときにこの生の面白みを再認することも大いに含まれているのかもしれない。

であればこそ、と唐突に話題を少しそらしてしまうが、どのような理念や美辞麗句の元であろうと、ある一人の人生が、言葉が、声が、誰かによって軽んじられ損なわれてはならないと強く思う。(不遜なエゴイスムに聞こえることを覚悟で述べれば)誰かを傷つけるということは、唯一の他者の尊厳を大きく損なわせるだけでなく、そのような唯一の存在に傷をつける存在としての人生を送ることを自身に与えることでもある。この事態を、特定の誰かが不特定の誰かに傷をつけることを許容するなどという権力の発生現場に敷衍するならば、そこで生じた傷は容易に癒されることのない大地の裂け目のようなものになってしまうことだろう。

情けは他人の為というよりも、本来的には己の為にあるという諺の真意がこのような逆説的なエゴイスムにあることを、不協和音の只中で確認するためにも私はおそらく対話の只中に身を置くのかもしれない。他者との人生が他ならぬこの一つきり、一回きりの人生の癒しの妙薬であるという真意を、誰かの人生を娯楽のように消費することなく、真摯に受け取り続けるためにも。

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