リフレクションについて⑴

「探究伴走」をはじめてから、「探究」(inquiry)以上に、子どもの「振り返り」、教員の「リフレクション」(reflection)について尋ねられる。リフレクションを専門に研究しているわけではないけれど、自身の専門の中でも重要な概念になるこの概念について、ブログレベルで整理しておこうと思う。

それにあたり、よく質問される時に前提となっている、教師にとってのリフレクションについての捉え方を以下3つほど、参考程度に挙げておく。こうした捉え方がなぜか自然と生じてしまっている現代日本の文化的背景を追求していくことも重要になる気がしている。どなたかぜひ研究していただきたい。

  1. 更生的反省観:教師のリフレクションとは教師が自身の暗黙に抱いている認知の歪みや信念を、自身への痛みを伴う反省によって取り除き、「善い」教師になるための営みである。(日本の「反省」という言葉の言説の影響が強いかもしれない)
  2. 定期的更生=反省観:教師のリフレクションとは授業等で行った自分の行動・感情などを定期的に反省し、自分の学習観などを支える信念を更生していく営みである。
  3. 定期的反省における文字言語の重視:教師のリフレクションとは自分の行動や振る舞いについて定期的に文章で記録=執筆することから始まり、このデータに基づいて「定期的更生=反省」を行うことである。

結論から言えば、リフレクションは自身の歪みを取り除くようなものではなく、定期的に文字に起こさなければいけないものではなく(イメージや画像、写真や映像、芸術表現でもリフレクションのきっかけになるため)、何らかの権威が示す「善さ」を各教員に強いてインストールするために行うものではないとは、少なくとも私のアクセスできる知識のリソースの中からでも言えると思う。

上述のような捉え方を推し進めてしまうと、まさに昨今の教師教育者たちが否定してきた、なんらかの権威によって決められた知識やスキルを子どもに詰め込むだけに存在する、一種の「導管」(パイプ)としての教師像を強化することになり、教師の尊厳と自主性を深いところから傷つけるような行為になってしまうのではないかとすら思う。

教師のリフレクションは子どもの探究と同じように、安全な場所で、信頼できる人々と、ワクワクしながら自己理解と学習者理解、教科活動への理解を深め、自身の内側にあるさまざまな理論的視点(仮説)を意識しながら、実践に基づく教育研究を進めていくものだと個人的には感じている。本記事が少しでもこのようなイメージを得ることの手助けになることができれば幸いである。

なお、専門の研究者・実践者の方が読んで「それ違うよ!」というポイントがありましたらぜひコメントいただけますと幸いです(修正します)。すごくざっくりしたものになることをご理解いただきつつ、お読みください。

目次は以下の通り。
1.リフレクションのざっくりした哲学的背景 ←本記事
2.リフレクションのざっくりした教師教育研究レビュー ←次記事

1.リフレクションのざっくりした哲学的背景

昨今のリフレクションに関連する哲学的背景について述べるとすると、間接的に背景としてある⑴17世紀の意識の哲学、⑵19世紀のヘーゲルの観念論、そして昨今のリフレクション研究で直接言及される、⑶ジョン・デューイのreflective thoughtについて紹介しておくと、いくらか見通しがよくなるのではないかと思う。大まかな見取り図だけ述べておこう。

⑴17世紀の意識の哲学

17世紀ごろ、デカルトやロックなどによって、「意識」が真理や知識(差し当たり科学法則をイメージしてもらいたい)を生み出すリソースとしての重要な位置を与えられていった。というのも、意識は人間が感じていること、想っていること、考えていること(=人が日常的に抱いている一次的な意識)について改めて意識していくこと、言い換えれば「省察」を行うことができるためだ。

たとえば、ある科学実験を行う場合、単に実験について無軌道に試行錯誤したり、あれこれ考えれば良いというものではないことは明らかだろう。その実験を通して自分が知りたいことについて意識しながら、自分が意識していること(知りたいこと)についてより明確に洗練させていく(自分が問題にしていることは一体なんだろう、どの実験を行えばそのことは明らかになるだろう……と考えていく)意識的な思考のプロセスが必要だ。

当時、「経験」はいまでいう感覚に近い言葉であった。物の目で見た様子、手で触れた様子(例:キラキラしている、ざらざらしている)のみについて考えてみればわかるように、それらはとても曖昧で混濁しているもので、一人ひとりがその都度の経験(感覚)から得ていった知識は限られた場所、限られた事例にしか当てはまらないものとみなされていた。もちろん感覚を軽視したということではなく、この経験の限定性への自覚がかえって科学的な実験をより精緻にすることを推進したことだろう。

そのため、これら経験(感覚)によって与えられた物や対象のあり方を、間違いや誤りも伴いつつも、より明確な概念や知識へと洗練させていく思考、そして省察をすることができる人間の「意識」に重点が与えられていた。

19世紀のヘーゲルの観念論

その後、19世紀のドイツ観念論、特にヘーゲルによって人間の「意識」(自我)は、その都度の経験に直面しながら自分の同一性を変化させていき、そのさまざまな経験を踏まえたうえでまた、新しい自分へと立ち返っていくことで成長していく、円環的なプロセスとして描き出された。

たとえば、ある子どもの自立への成長プロセスを見てみよう。子どもが自分がどの子どもより一番大事にされる存在だと思っている時期から、多くの子どもたちの中で有能にならなければ大人から大事にされない存在だと思わされ、大人が評価したり気にいられたりするようなことをしていた時期を経て、誰かに評価される能力を身につけたとしても他人の評価だけで自分の価値が決められていては自分を大事にできないと気付かされ、一番自分らしくいられることが一番大事だと思い本来の自分に立ち返り、自立の道を歩み始めたとする。

こうした、人間のその都度の意識がその外界に広がる現実に触れ、本来の自分ではないような存在に変化した後、すでに変化してしまった自分から──元の過去の自分に戻るのではなく──新たな自分らしい自分へと立ち返っていくという往還的なプロセス、この新たな「自分そのもの」に立ち返っていくことを、ヘーゲルは「リフレクション」(Reflexion)と呼んでいる。イメージとしては、ある光源から発された光が鏡に反射(reflect)して、同じ光源へと戻ってくるようなイメージだ。

厳密にはいろんなトピック(例えば思弁[speculation]と省察の違いなどがあり、ヘーゲルは前者を重視した)が噴出するためこのあたりの議論については割愛しておくが、この記事で理解しておいてほしい重要なことは、17世紀とは異なり、ある時代の人間の意識が抱いていた真理を覆すような出来事を突きつけ、その時代の人間の意識が新たな真理を目掛けて成長していく重要な役割が「経験」に与えられたということ、そして意識はそうした「経験」をいわば鏡のようにして自分を問い直し、経験を踏まえたうえでさらに新たな自分へと立ち返るよう意識することができるという、新たな意識観のもとで意識が捉えられたことだ。

次に述べるデューイの省察観について紹介するにあたって、少し重要になる観点を最後に一つだけ。ヘーゲルの30代の著作である『精神現象学』において、彼はこれまで地球上で生じてきた、さまざまな地域の歴史をも「意識が成長していくプロセス」として描き出している。

いわば世界史を一つの教養小説のように、幼児が青年へと成長していくような成熟のプロセスとして描き出している。このことの是非と詳細は今は置いて、ひとまずヘーゲルが意識という言葉の風呂敷に人間の歴史までも取りまとめた、凄まじい概念拡張を行った人だということを覚えておいていただけたら幸いである。

⑶デューイのreflective thought

さて上に引いたヘーゲルの意識観に、若い頃ヘーゲル主義者でもあったデューイがとても親しんでいたことはよく知られている。この点についても詳細は割愛するが、本記事にとって重要なことは、ヘーゲルが行ったような意識概念の拡張に近しいほどにラディカルな、デューイの行った経験概念の拡張である。

デューイは生理的な感覚や感情などに加え、人間の意識や、その意識の中で起きている思考、知識、概念すらも「経験されるもの」として位置付けた。いわば経験という言葉の風呂敷の中に、それまで取り分けられていた意識や感覚などを取り込み整理したのである。これは現代でいう「経験を積む」という時の経験という言葉の使い方とほぼ同じ捉え方であるが、デューイがこうした現代でいう「経験」を洗練させていくものとして「省察」(reflection)を位置付けていることを、忘れてはならない。

先ほど17世紀での「意識」による「省察」を説明するために例に出した科学実験のことを思い出してもらいたい。あの例で述べたように、単に実験についてあれこれ考えただけでは知りたいことへの深い理解は生まれない。これまでの経験から獲得してきた自分なりの知識について自分の頭のなかで考え続けるだけでなく、それこそ新たな光を投げかける「経験」を通じて明らかにしていくプロセスが必要になる。

このように、以前の経験が今の新たな経験とが互いに関連しあい、関心を持っている事柄について新たな光を投げかけていく経験の相互作用のプロセスによってより深みのある良質な経験へと深化させていく「学習」が生まれていくのであり、学習者の経験を良質な経験へと再構成していく「教育」が生まれていく。

そして、こうした経験の連続性や相互作用のなかで自然に生じていく、経験を吟味していく経験こそ、「省察」という新たな経験なのである。それは誰かに強いられてはじまる「反省」というよりも、子どもを見ていれば自然に着手されている「探究」のプロセスそのものであると、デューイには感じられていたように思われる。

例えばそれは、比較的精巧な車のおもちゃで遊ぶ子どものように、好奇心を持って車を操作しているうちにふと、なぜこの車のおもちゃは(積み木の車のおもちゃと違って)こんなにスムーズに走ることができるんだろうと、そのタイヤの仕掛けなどに知的な好奇心を抱き、おもちゃを持ち上げてためつすがめつ見回し、あれこれと考えボディのあたりを叩いてみたあと、タイヤのところだけクルクルと回してみたところから、一方のタイヤが回るともう片方のタイヤも同時に回ると言う技術的な工夫に気づいて(本質的諸相への気づき!)、積み木のおもちゃにはそうした仕掛けがないことを確かめていくような、感覚と思考が常に行き来することで知識が洗練されていくプロセスだ。

つまり、これまで蓄積してきた一次的な経験の意味──先の例で言えば、精巧な車のおもちゃはスムーズに走るという当たり前のこと──をふと問い直し、新たな光(仮説)を投げかけ、当の経験についてより多面的に、より深く理解していこうとするこの二次的な経験における「活発で、粘り強く、注意深い熟考」(Active, persistent, careful consideration)こそ、デューイによれば「省察的な思考」(reflective thought)なのである。

さて、このようにデューイの「経験」というメガネで人間の省察と、それに基づく学習と教育という営みを見つめたのちに、今度はその数万年にも及ぶ人類全体の文明化への歴史を見詰めてみると、地球上のさまざまな地域で学習の文化が花開き、教育の文化が生まれていったことの理由が透けて見えてくる(気がする)。

特定の地域に生きていたそれぞれの人々が交流し合うなかで、自然と自分の経験について話し合い、それらについてともに考え、その考えをともに洗練させていく(学習)。そうした新たな経験が生み出されたところから、人々の経験が絶えず再構成されていく営みが出来上がっていく(教育)。そうした学習や経験の蓄積から新たな文化や生産物が生み出され、共同体を超えた社会の流通が発生していき……と、人類にとって新たな「経験」が続々と生まれていく。

デューイの経験概念(に基づく教育概念)は、ここにいたって人間の社会の形成や歴史の形成にまで至る大風呂敷になっているのである(と私は思う)。デューイは、これまでヨーロッパで「意識についての意識」と定義されてきた省察概念を、「経験についての経験」として捉え返したところから、遠大な経験概念の拡張を行っている。

(これは完全な余談だが、数百万年前から、1,000年単位の規模で起きていく気候変動や地形変動という激動の変化のなか、大陸や島々を行き来し、石器などをもちいて生き抜き続けた時代の試行錯誤の末に、地球上にさまざまな文化が育まれ、それによって異文化の集団相互が刺激を与え知識を吟味し学習を洗練させていったことを考えると、国の「歴史」というものが霞んで見えてくる気すらする。おそらく私たちが尊ぶべきは権威ある神や国よりも、現代にも続くこれら人類たちの、記録にも残されていない日々の小を積むような省察と探究であろう。そしてこれら日々の一人ひとりの小を積む省察を尊重する態度こそ、子どもの自主性を尊重する態度であり、ひいては教師の自立性を尊重する態度と同型であると思われるのである。)

まとめておこう。17世紀には経験(感覚)と意識は対置されていて、何かを感覚したり思考している一次的な意識について省察する二次的な意識の重要性が打ち立てられた。19世紀には、経験は意識のなかに統合されたが、意識を成長させる不可欠の契機として位置付けられた。そしてデューイにおいて経験は人間の意識も感覚も含む非常に大きな意味合いを持つ概念へと拡張されるに伴って、省察もまた意識の中で繰り返し思考を回していくプロセスというよりも、よりダイナミックに、これまでの一次的な経験に新たな光を投げかけていく二次的な経験へとその意味合いが変化した。

この省察=探究のプロセスをイメージするのに、なぜか私たちは頭のなかでぐるぐると試行錯誤したり、PDCAサイクルを回すかのような既存の「型」をイメージしてしまいやすいが、むしろ上述に長く記した子どもの自然な省察=探究プロセスをその模範としてイメージしてもらいたいと個人的には思う。

参考文献
Hildebrand, David, “John Dewey”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2018/entries/dewey/&gt;.

Hitchcock, David, “Critical Thinking”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/fall2020/entries/critical-thinking/&gt;.

Jorgensen, Larry M., “Seventeenth-Century Theories of Consciousness”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/spr2020/entries/consciousness-17th/&gt;.

小林道夫(2006/2014)『デカルト入門[Kindle版]』筑摩書房.

Redding, Paul, “Georg Wilhelm Friedrich Hegel”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2020/entries/hegel/&gt;.

山田有希子(2016)「ヘーゲル論理学の存在論としての可能性について : 『大論理学』における「矛盾」概念の考察から」『宇都宮大学教育学部研究紀要. 第1部 』宇都宮大学教育学部, (66), 89-106.

Verene, D. P. (2012). Hegel’s Absolute: An Introduction to Reading the Phenomenology of Spirit, SUNY Press.

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