深く息を吸って、ゆっくりと吐いて。また深く息を吸って、またゆっくりと吐いて。自分を含めた誰かを落ち着かせたいときに深い呼吸を促すことがある種の慣習になったのは、いつの頃からなのだろう。息が浅くなることは苦痛、不安のしるしであるし、息が深くなることは平静、平安のしるしである。人間にとって息をすることはあまりにも当たり前でことさら注意を向けないものの一つであるとは思うが、風邪をひいたときや心なしか息苦しいとき、無自覚に息をすることができていた尊さに思い至る人も多いだろう。
考えてみるとさまざまな動植物に共通する「呼吸」という生理的で往還的な動作が、種を問わずその身体の内外を行き来する「息」という見えない概念へと抽象化されたとき、どこか精神的な意味合いを帯びたのかもしれない。身近なところで言えば気息、息災、消息、息吹など、ある対象が息をしているということはその対象になんらかの生命活動が感じられるということとほぼ同義であろう。
この「息をする」ということが生命活動と同義であるものとして人間の意識にのぼったのは、おそらくは呼吸という無自覚に自動的に行われていた営みが失せたときに生命が消えていくことを知った、その切ない瞬間のことであったろう。そのとき人間は今しがた呼吸をしなくなった身体に触れながら、口元に耳を押し当てたのかもしれない、いつもなら内側から暖かな風が出てくる場所に手のひらを当ててみたのかもしれない。
「息」という生物の内側から吹く風が身近な生物すべてに共通する生命活動の証左であり、それが失われるときその生命もまた消え失せてしまうのだと気づいたとき、古代の人々にとって息はいわば個体の原理、魂のようなものと思われたことだろう。しかしその身体を撫でてゆく風と空の上で渦巻く大気のありようとが呼吸する息と同一視されたとき、それらは個体を超えて世界全体を行き来する生命の原理にすら思われたことだろう。かつてあの人が呼吸していた大気を、私も今呼吸しているのだというように。
実際、息と風、大気と生命とを同一視する思想の傾向はさまざまな文化圏を超えてあまりある事例を提供してくれている。例えば古代ギリシア語で「気息」を意味していたpsychē、「大気」を意味していたpneuma、ラテン語で「息」を意味するspiritusやanimusはそれぞれ「魂」や生命の原理をも意味していたし、古代インドのサンスクリット語で「息」を意味していたprāṇa、古代中国で「呼吸」を意味していた氣も天と地の間を行き来する「風」として、世界を構成する生命の原理をも意味していた。
また世界三大宗教それぞれの聖典において、土塊からできた人間に神が「息」を吹き込むことで人間は生命を得たと語られていることを思うと、息はただ自身の生命活動を維持するために往還されるものというのでなく、例えば人工呼吸の例にも明らかなように、他者の生命活動を維持するために他者の身体のなかに息を吹き込んだり、あるいは吹き込まれたりすることで生命をつなぐ役割を担うものでもあると考えられていたのだろう。
この意味で私たちの呼吸している息、風、大気を意図的につくり出した超自然的で人格的な存在として構成された神もまた、人間と同様に「息をする」存在として捉えられていることは興味深い。古代の人々にとって人間が無自覚に呼吸していた大気は、他の生物たちだけでなく超自然的な存在もともに呼吸していたものなのだとすると、かつては皆がいわば同じ釜の飯を食べるかのようにその同じ大気のなかで暮らし、互いに息や風を介してその生気を循環させ合うような関係性を築いていたのではないかとすら思えてくる。
*
古代から人々は「息をする」というごく当たり前で身体的な営みを起点に、まさに洞察と想像との両翼を広げて自身を含めた世界に行き渡る風に乗り、想像の世界を通して形而上学的に「生命」とはなにか、さらにこれほどまでに世界の隅々にまでさまざまな生命が行き渡っているのはなぜかを問い尋ね、洞察していたように思われる。そしてそうした素朴ながら意義深い「息」への洞察と想像は、今もなお連綿と哲学で展開されている。
現代の事例を見てみると、「病い」(illness)について哲学的に考察しているハヴィ・カレル(Havi Carel)は、私たちが普段「息をしている」(breathing)という経験の枠内で生きていることがかえって、「息が絶えていく」(breathlessness)という経験を単なる病理学的な症候としてではなく、生理的なもの、心理学的なもの、霊的なもの、文化的なものの繋ぎ目へと変貌させていると洞察している*1。
確かに息はふつう無意識に生理的に行われている。しかし息を深く吐ききって肺のなかに少しも息がないようなとき、私たちは事実として死に対しすこし近いところに立つことになる。もう一度息を吹き返さない限り、その人は彼方へと旅立ってしまう。私たちが暗黙のうちに理解しているこの命の限界点としての息を見つめるとき、スポーツや武術、ヨーガなどでなされる呼吸法という文化的な模範は、命を事実として繋ぎ止め身体を活性化させていく生理的、心理的安堵感だけでなく、今ここで確実に、この身体は息を繰り返すことができているということを自覚する体験となる。
息のこの特殊なあり方のためだろう、息をするということは人間が単に事実として生きていることを示す生理的なものとしてだけでなく、文字通り自然と人間の身体、それらが彩る文化的な世界のあいだを媒介するものとしても現れてくる。そのような不思議な存在である息をめぐる「呼吸の哲学」(respiratory philosophy)を構想している哲学者たちの一人であるペトリ・ベルントソン(Petri Berntson)は、「息をするということは一つの、私たちと世界のあいだの恒常的な関係性、恒常的な交換」*2なのではないかと考察している。
人は大気を含む自然のただなかでそのさまざまな文化を築くために、常に息をしながら、息の仕方を整えることで周囲の世界により良く関わろうとしていく。眠りを終えてする欠伸から、日々の仕事や家事の前の一息、家族や同僚と阿吽の呼吸でルーティーンをこなし、息の合わないところのリズムを整えつつも、安堵のため息から不安のため息までさまざまな息を通じて日々を終えると、穏やかな寝入りの呼吸に向かっていく。それは人が生まれた時の最初の呼吸から、その最期の呼吸まで続く大気の交換のプロセスなのであり、この大気の交換というひそやかな一点を梃子にして私たちは世界と関係を取り持ち続けている。
このように大気と常に共にある人生の最中で、息が詰まるような関係性が特定の場所とであれ他者とであれ築かれてしまうこともある。誰かが自然と深く「息ができる」ということは、その人と息の合うものや人々が見えざる大気のように周囲に存在していることによる。深く息ができるその大気がすでに周囲にあるときにはそれと見定めることは困難だが、ここではどうも息がしづらい、息が詰まりそうだということを、私たちを活かしている身体は不思議と察知して、自分にとって息のしやすい大気=雰囲気(atmosphere)の感じられる場所へ移動していく傾向があるようだ。
ともすると私たちは自由の象徴とすら言えそうな風をしばしば屋内に閉じ込め、その流れを悪くし、果ては排他的な空気を作り出してしまう。そんな状況のなかでも人間の身体は新しい風を心肺のなかに取り入れ、新しい息を大気の中に返していくことを自然と繰り返し行ってくれている。私たち自身もまた身体にならい、新鮮な出逢いを自らに取り入れ、新たな想像や想念をこの世界のなかに返していくような呼吸を模範とすべきなのではないだろうか。多様な人々の文化に息づく呼吸を取り入れ、いつも瑞々しさに満ち溢れている風はきっと、その人の帰属や属性にかかわりなく誰もが深く息のできる場所を生み出すだろうから。
註
*1 Carel , H. (2016). Phenomenology of Illness (English Edition) Kindle Edition, Oxford, UK: Oxford University Press, p.128.
*2 Bertson, P. (2018). Phenomenological ontology of breathing : the phenomenologico-ontological interpretation of the barbaric conviction of we breathe air and a new philosophical principle of Silence of Breath, Abyss of Air, JYU Dissertation, Jyväskylän yliopisto, p.12. Retrieved from http://urn.fi/URN:ISBN:978-951-39-7552-4 (2020年9月4日確認)
参考文献
Škof, L. and Berndtson, P. (Eds.). (2018). Atmospheres of Breathing (English Edition) Kindle Edition, SUNY Press.
Lewis. M. A. (2018). A Voice that is Merely Breath. The Philosopher, CVI(1). Retrieved from https://eprint.ncl.ac.uk/246320 (2020年9月4日確認)