教える人として生き続けられる世界をつくる --クランディニン教授講演会感想記--

昨日、自分が修論の頃から使用している研究手法である「ナラティブ探究」の生みの親の一人、ジーン・D・クランディニン教授の講演会@学芸大に向かった。

かつて『教師教育』という雑誌で彼女の理論と実践研究を紹介した折に、この文面で間違いがないかなどメールのやり取りは少しさせていただいたのだけれど、面会は昨日が初めて!いやあ緊張したあ。

実際にお会いしてみると、「ああ、この人だからナラティブ探究を生み出せたんだなあ」と感じ入る方で。表情豊かに、でも静かに教師とその世界を優しく共感するベースを持ちながら、かつ理論的な背景による指摘の鋭さもあわせもちながら相対してきた人なんだなあと。一層、ナラティブ探究を用いてもっと深めていきたいと感じたのでした。

講演の内容は、当日ハイクオリティの通訳&資料の翻訳をされていた都留文科大講師の山辺さん(余談だけれど若手教育学者たちが本当にハイスペックで恐縮する)が正式に報告されることと思うので、徒然なるままに書き散らしている本ブログでは、いくつかの論点とそれに対する個人的な感想を。

自分なりに講演をワンセンテンスでまとめると、

「教師を職員として“就き続けさせる”(Retain)ための教員養成から、教師が一人の教える人としての人生を“生き続けられる”(Sustain)ための教師教育へ」

と言えるのではないかな、と思った。(このsustainという用語が講演のキータームであった。当日は離職がイシューとなっていたこともあり、“踏み止まる”という「皆」の意を得たりの名訳がなされていたのだが、本ブログでは文章の流れから“生き続けられる”という言葉を使った)

博士によると、若手新任教員の早期離職がカナダでもアメリカでもソーシャルイシューになっているのだという。先行研究でのイシューの観点をまとめると、(教員の離職によって)児童生徒のアチーブメントの不安定化、離職した教員を補充する教員の再研修に費やされる経済的コストの増加といった課題が挙げられているのだという。

アメリカの研究では、教科内容知識(pedagogical content knowledge)をきちんと養成課程で教えていると、離職率が減少するという結果もあったらしいが、博士たちがカナダで調査したところ、教科内容知識は離職率の説明要因として不十分であるとの結果が出たとのこと。

実際、このイシューは、知人友人から見聞したリアルなエピソードや、自分自身も実践者になって感じた経験を踏まえてもとっても複雑だ。離職をシステム的な問題と捉えると制度的な解決策(メンター制度の充実など)を与えて事足れりとしてしまうし、

一方個人的な心理的特性の問題と捉えると、バーンアウト傾向のある教員をレジリエンス(耐性)の“欠落”(deficit)した教員として見なす危うい解決策を認めるようになってしまう。つまりは、イシューに対して採用するその人の視点(前提)が、複雑なイシューの問題点とその解決策を一面的に規定してしまうのである。

では、どうしたら? まずは、若手教員にいま一体何が起きているのかを知ることが第一だ。

そこで博士たちは、55名の教職2〜3年目の若手教員たちへのインタビュー調査と、6名の離職経験のある教員へのナラティブ探究を行ったそうだ。質的研究計画マニアとしてはこの研究設計に痺れる。

その調査結果を一言でまとめるなら、自分の教員としての人生と、一人の人間としての人生との間に溝が生まれ、その間の葛藤を対処できなくなっていったときに、離職を選んでしまうということだ。

たとえば、日々学校外の場所で送られる、一人の人間としての尊厳ある人生が、学校の“多忙さ”によって全て吹き飛ばされてしまったようなとき、自分の人生が教育に全て持ってかれてしまっているこの日々は“いつまで”続くのだろうかと「離職」が脳裏をよぎる。

養成課程でえた教科内容知識のみでは対処できない、良かれと思って多く与えられるOJTの研修や、新任たればこそ進んで引き受けなければと感じる分掌業務など、目の前のリアルな学校文化と自分の(教員)人生のあり方を巡って調整・交渉していくスキルが求められる。だが、そうしたスキルが必要になるということを養成課程では教わらないし、実際カリキュラムの中にもない。

この辺り、日本の教員文化は「教師」=「プライベートも全て仕事に注ぎ込むべき職業」というイメージや認識がまだまだ根強く残っていることを考えると、このイシューが「問題提起」として受け取られるかどうか不安もある(講演会でもその不安は共有されていた)。

近年解明が進んでいるが、以下に紹介する教育社会学者の舞田先生のブログにもあるように、日本の教員は世界的にみて多忙にすぎるし、「新任はなんでもやるべき」といった文化があるからか、一層課外活動などの指導を任され、多忙へと向かってしまう傾向があるように思う。(ちなみに博士によると、カナダにもこの「新任はなんでもやるべき」文化があるらしい)

「教員の病気離職率」(2017/9/24)

「中学校教員の年齢層別の課外活動指導時間」(2016/2/23)

「教員の職業満足度の国際比較」(2014/12/16)

「病(辞)める教員」(2013/11/17)

これらの調査の結果から、博士たちが得た考察を自分なりにワンセンテンスでまとめると、

「一人の教員としての教職人生を支えるストーリーと、一人の人間としての生き方を支えるストーリーとを織り合わせ、教える人としての人生を“生き続けられる”教師教育が必要だ」

ということだと思う。これは単純に、専門的な教師の世界に、個人的な世界観を持ち込むべきというような話ではない。自分自身がこういう人間になりたい、という個人的なアイデンティティに基づいて、こういう教師になりたいという教員アイデンティティが紡がれるということなのだ。

どんなに優れたベテラン教員であったとしても、教員人生で身につけた専門的な知識は、学校の内外で体験してきた、教員になる前から培ってきた、本人の個性的の世界観・人生観に基づいて生み出されているのである(この主張は、俺自身が修士時代に、図工専科のベテラン教員の皆さんへのナラティブ探究で身にしみた結論そのものだったので、激しく同意した)。

専門用語でいうなら、こうした個人的なアイデンティティのストーリー(個性的な知識の風景 personal knowledge landscape)と、教員人生を支えていく教師としてのアイデンティティのストーリー(専門的な知識の風景 professional knowledge landscape)とを、分離させるのでもなく、どちらかを優先させる(べき)という在り方なのでもなく、ともに一人の人間の中で相補的に織り合わされていけるような教師教育を実践していくことが大事なのだ。

では、こうした教師教育はどのようにしてなされるのだろうか。博士は、学生や教師とともに「自伝的なナラティブ探究」(autobiographical narrative inquiry)を行い、自分は何者なのか、なぜ教師になりたい/教師を選んだのか、どのような体験が自分の教師としての軸を創り出したのかについて、協働的に探究しているという。こう言うと仰々しく感じるかもしれないが、以下に述べるようなワークショップ形式で探究されているそうだ。

たとえば自分の人生を時系列的にタイムラインを描いて整理したり、ある日の写真を持ち寄ってもらい、その写真の前後関係や写真に写っている人たちとの関係性を語りながら自分の人生について振り返ったり、普段身につけているものの背景を探究することで自分のアイデンティティを探究したりなど。こうしたさまざまなアプローチを繰り返し行うことで探究していく教師教育実践の事例を報告してくださった。

改めて、ナラティブ探究の世界観とアプローチには、激しく頷かざるを得なかった。話を聴きながら、何度共感したかしれない。講演後の質疑応答の際に、僭越ながら2度も質問をさせていただいたのだが、それぞれとっても参考になった。

長文になってしまったが、こうした教師教育を実践していける場を、微力ながら創造していきたい。

そう、強く思った。

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