いろんなところで想定されているこの再現性の神話と科学とを区別して論じないと、おかしなことになるとひしひし感じている。結論から言えば、教育は方法と効果の因果関係を想定するなら、再現可能に「見える」。
↑厳密には、「A+B=C」のような、構造式を想定するならば。
AにBを投入すれば、Cになる、というわけだ。
事実、応用行動主義的な実践は再現性が高いと思われる。何を強化子にするか、そしてそれを強化する目的が教育的に妥当かなどの問いから外れていなければ、この類の実践は有益だ。例えばいわゆる「褒めちぎる」「プラスな言葉を使い続ける」教え方は、そうした強化の論理を徹底する実践だと解釈できる。そうした教え方によって、どの先生でも一定程度、児童生徒をある行動から別の行動へと強化することはできるようにはなるかもしれない。
だから、再現可能性を高めようと努めることは、教育にも可能だということはできる。
けれど、そもそもの教育という営みを考えるに、<いかに><いつ><どこで>実践するかという点を抜きにしては語れない。その<いかに>は、<自信満々だったその子が初めてこの単元で悩み始めた時にいかに振る舞うか>、<教室をウロウロとしてしまうその子に厳しく叱りつけてしまった翌日、我慢していながらも少しずつウロウロし始めたその子にいかに振る舞うか>といった、とっても個別的具体的かつ一回きりの状況と不可分な<いかに>である。
その意味で、その状況と不可分な一回きりの実践は、決して再現可能ではない。再現性を求めている人にとっては、おそらくそうした主観的でプライベートにすぎる実践はもともとお呼びでないかもしれない。しかし、現場にいる中で一番関心が高いのは、こちらの再現不可能な、一回きりの今日の実践をいかに戦略的に構想し、即興的に実践していくかだ。
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こんなことを考えたのは、最近EdTech関連で再現性についての主張(再現性が高くなければ投資することはできない)を見聞したのと、アイズナーの教育的鑑識眼についての論文の翻訳をコツコツと始めたことによるところが大きい。後者の一文を、以下に引用しておこう。アイズナーが教育的鑑定と教育的批評を提案する論文の序。
私がこれから提案することは、科学的なパラダイムでなく、芸術的なパラダイムから始まっている。私は教育の改善というものが、大陸の至るところにある教室に対して、あるいは特殊な個性的特徴を持つ個人に対して、普遍的に応用できるような科学的な方法を発見しようとする試みの結果からのみ生じているわけではなく、むしろ教師やそのほかの人々を、自分のできることを見つめ、考える能力を成長させるための教育へと参加させることによって生じているという想定から出発している。学校で生じている教育実践は、何が起きるかを予測し、ましてそこで起きることを制御することなど決してできない偶然に満ちているのであり、非日常的で複雑に絡まった事態として生じているのである。
(Elliot W. Eisner (1977) “ON THE USES OF EDUCATIONAL CONNOISSEURSHIP AND CRITICISM FOR EVALUATING CLASSROOM LIFE” Teachers College Record, 1977, 78(3): 345-358.)
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学校生活に親しんでいる人や、学校生活を舞台にしたものに親しんでいる人は、学校の環境を「当たり前」で「日常的」だと思っているかもしれないが、
例えば部屋が同じサイズでかっちり区切られており、ひとりにひとつの机と椅子が割り当てられ、決まった時間に決まった内容を決まった程度こなすよう義務が与えられ、その成果を定期的に測量される場所に3年間毎日行ってきてほしいと言われたと考えてみてほしい。
そう、社会の暮らしにとって、学校は生育環境としても労働環境としてもとっても特殊な場なのである。更に言えば、教えている内容も実はかなり非日常的だ。
どう見ても太陽が地球の周りを回っているように見える「日々の暮らし」の中で、地球こそが太陽の周りを回っているのだと伝え、原子など実際に見たことのないにも関わらず、ものは原子からできていると“普通に”伝えるのだから。
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そうした非日常な教室の世界で、日々の日常的な暮らしのような安心感を抱かせつつ、いかに非日常的に飛躍した世界を学習者に垣間見させ、浸らせ、血肉とさせるか。教師の仕事のすごさの一片でもわかってもらえたら幸甚である。