授業を見る前に、いい学校へ行こう

日本各地の面白く建設的な研究会を実践している学校を指導教授と見に行った体験が、今になると得難い財産だったなあと感じる。(当時はしぶしぶだったのだが笑)

常々言われていたことだが、授業を見る眼を養うためには、まずは何よりも「“いい学校”と言われる学校を見にいく」ことが大事だと思う。その他にも色々あるけれど、まずは。

いい学校を見に行く体験が、なぜ必要か?

自分なりの言葉で一言で言えば、「学校教育の可能性が実現されている現場を直に体験することで、自分の被教育経験から飛躍して、自分の学校観・教育観を拡げる」ために必要なのだ。

全入時代になったゆえか、教育学や教師を志す人の多くが自分の「被教育経験」に基づいて、「学校ってこんなところだよね」「学校ってこうあるべきですよね」「学校ってこんなもんでしょ」といった、自分なりの「学校観」を培っていることが多い(いわゆる「社会化」だ)。

Classroom2学校の教室と言えば↑、のように。

教育界隈で仕事をするとき、仕事のしやすさは結構、この学校観がしなやかであるかどうかってすごく大事だと思っている。

日本にも世界にも本当にいろんな独自のカリキュラムを構想している学校があるし、ひとつひとつの学校の中には(現れ方やステージは異なれど)いろんな「挑戦者たち」がいるのだが、

以下のような「ステレオタイプな学校観」を押し付けがちな人は、そのステレオタイプな学校観が自分の過去の被教育経験に由来していることにしばしば無自覚だ。

戦前から続く伝統校や、知る人ぞ知る地域のユニークな学校に行くと、「学校」ってこんなにユニークで興味深いカリキュラムが、こんなにも子どもにも社会にも開かれた形で実践可能なのか…!と目から鱗が落ちるし、そんな学校で挑戦を続けている人々による「いい授業」、授業の可能性そのものに挑戦している授業を見ると、身震いがする。

「すごい、こんな授業ができるんだ!」「なるほど、ここでこの学びが起きるのか…!」そんな現場が目の前に繰り広げられるのであるから、それが公開/校内研究会であれ普段の授業であれ(なるべくなら普段の授業の方が本当に味わい深いのでオススメしたいが)、

そこで起きている現象を細かく観察し解釈し分析し、本時の授業の本質的・中核的な事態を直観して行くことで、自分の授業観・教育観・学習(者)観が変容して行くし、なにより、自分の被教育経験から飛躍して、「学校とはどのような場であるか」という自分自身の学校観が鍛え上げられて行くのが実感できる。

しかもそういう“いい学校”の研究授業や授業の検討会は、学習者の目線で学びのプロセスやその地図をマッピングしつつ、授業の中での学習者相互の関係性の深まりや関係性の深まりに基づく学びの深まりなどを把握して行くことに全力を傾けて行く。

そこで暗黙に共有されている態度をあえて言葉にするなら、以下のようになるだろう。

授業者がひとつの授業の中で起きている現象の全てを知ることは、そもそも不可能だ。でもだからこそ、観察者たちが授業内で起きていた現象を可能なかぎり持ち寄って、授業者や観察者たちが協働的に学習者の目線と教育者の目線、そして社会の視座から授業内の現象を意味付け価値づけることで、明日の授業への戦略・戦術構想へと繋げて行く

過去に有名附属校の公開研究会に行ったとき、意外に発表者の授業観・教育観を批判して、自分の授業観の宣伝をするのに終始する不毛な研究会が多くて驚いたが、本来的には上記の態度で臨むのが良いんじゃないかと個人的には思っている。

授業をよく見る目を、身体を培いたいと思う人は、まずはいい学校のいい授業、つまり素敵な先生と素敵な子どもたちの姿を見に行ってみることをオススメしたい。

きっと、自分の学校観がガラガラと崩れて、憧れて信望して、あんなのあそこでしかできないと諦めると言う一連の体験を経て、その末に「いや、エッセンスだけなら自分のところでもできるんじゃないか」と模索するところから、自分オリジナルの授業観・学校観が見えてくるはずだ。

きっと授業を見る身体が、変わってくる。

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