未来をみる

※FBからの転載
高校時代、哲学にハマっていた時、同じくこっそり哲学にハマっていた友人がいた。「今日デカルトとか読んじゃってんだぜ」みたいな感じで、ちょっと背伸びし合う感じで。

そんな友人とは結構シリアスに人生の進路のこととか時勢のこととかも話し合えてとっても楽しかったのだけど、浪人時期に北朝鮮と自衛隊の話になった。友人は「自衛隊を武力として使えるようにして、相手に示した方がいい」と考えていた。

俺は、「そのあとはどうなると思ってる?」と聞き続けた。

3回くらい聞くと、「そんなのわかんねえよ!」となった。「それぐらいしかわからない段階で、武力で示すのがいいと考えるのは危険だと思う」と伝えると、国交断絶のような感じになって、それ以降、その友人とシリアスな会話はあんまりしなくなってしまった(若いw)。

未来をみることは、難しい。ただでさえ難しいのに、その未来には、今この時ですら何を考えているかわからない「他者」がいるのだから一層だ。この難しさを知らない状況で、未来は一つしかないと考えた瞬間から、雪崩のように人は動く。その動き自体が、未来を一つにして、人の動きを予測可能なものにし、同調圧力を生み、権威を生み出していくと、なかなか気づけない。金融の動きにしろ、政治の動きにしろ、教育の動きにしろ、教室の中の空気にしろ。

本来なら、未来をみる力は、過去の把握と現在の分析に紐づいて、予測不可能で不安の漂う未来を「一つ」にまとめ、安心してワクワクして人生を生きるためにある。世間で言われるvisionとは、本来的にはそのようなものだ*。その力は一人一人の中に、必ずある。つまり、異国の人の中にもあり、子どもの中にもある。

そこを信じ抜き実感するところから政治、経済、ひいては教育は始まる。

共に、自分と異なる出自の相手が野蛮人でもなく未開人でもなく、未来を見ている「人間」だという自明なことに気づくところから始まっていく近代的な営みであるからだ。

そんなことを、想う。

<註>

*例えばエリクソンは『玩具と理性』の中で、子どもの遊びから政治経済的なヴィジョンに到るまで共通している、人間が「視覚的なモデル」を構成して遊戯的な空間や政治的/経済的な空間の一貫性を理解しようとする「幻視性」(visionary)という能力に言及している。

…視覚(vision)のもつ二つの意味、つまりわれわれの前に今ここに存在するものを見る能力と、未来に本当になるかもしれぬもの(もしそれを信じることさえできれば)を予見する(幻視的visionaryな)力、この両者を結合している。(p.46)

人間はこの能力によってその後の全人生段階を通して「自分が予測可能な世界の中に安心して(at home)存在している」という感情を得ることができる。(p.50)

この幻視的な現実のモデル(例えばごっこ遊びやサッカーゲームの中での「いつもヒーローになる自分」、政治経済の中での「終身雇用制度の中の自分」)が維持され、事実的な現実と折り合いをつけながら互いの領分を守っている間はいいのだが、このモデルの信頼性が揺らぐとき、自己とその現実を理解することもまた困難になっていくと彼は論じている。この困難を乗り越えていくことが個々のライフステージの課題となっていくというわけだ。

 

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