原理と単純化のワナ

※FBからの転載

ある事象のすべてをなんらかの原理(命題)から解明できると思うのは、ともすると還元主義的な振る舞いを助長するなぁ、と思う。そして認識に対する還元主義的な振る舞いは、認識についての知識の集権化を伴うので、その集権化の渦中にいる機関やひとが権威的になる、党派化する可能性がある。

それは実践的であれ理論的であれ哲学的であれおそらく変わらない。その方が分かりやすいし伝えやすいのだけど、その事象のなかの微細なものや他の事象との関連性、複雑さを見えなくもしてしまう。

ここを忘れると、そうした複雑さを見ないようにするために原理を表現する命題が使われることにもなってしまう。

先行研究や先行する実践を細かく辿る意義は、新規性の論証と知見の公共化プロセスを開示するということにもあるけど、そもそもの事象の複雑さ、事象を取り扱う人間と人間関係の複雑さ(派閥、主義、歴史など)を知り、その上でこの複雑さを複雑なままに調停する筋道を探ることにもある。

要はたいていの物事は単純じゃないから、単純化して伝えないように配慮するということだ。

それは教育畑の観点からいえば、ひとりひとりの児童生徒の置かれた多様な状況、その状況のなかで児童生徒が認識している文脈、いまここでの感情と信念、関心とその移ろいなどを配慮するのと同型だ。

逆にいえば、還元主義的な振る舞いは、これらをざっくり切り捨てて、自分の見ている世界のなかで、何らかの実践報告の意義を喧伝してしまうのと同型だ。

事象の複雑さを知ることは、こちらの配慮の行きとどかなさ、限界を自覚させてくれる。その限界に気付かなければ、その命題はあらゆるケースに使えるツールとして独占的になる。

多元性が一元性を孕み、一元性が多元性を孕むとは、たれが知ろう。

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