科学と実在性

明日から、ふたたび西條さんの質的研究WSに補助講師として参戦する。そのため、いまは三重のビジホでこれを書いている。その行きがけの中Twitterで、薬剤師の青島さんの薬学、疫学の形而上学的な考え方についての記事を読んで、考えさせられることがあった。というより、自分の考えていることと近似していることを考えているひとがいる、という実感をえて勝手に嬉しがっていた。

その薬剤効果の形而上学という記事には、現代形而上学の知識論の議論や科学哲学での科学的実在性についての議論やポパー、クーンの科学論、構造構成主義などがさまざま入り組んでいたが、自分はこのタイトルが秀逸だと感じた。そう、「効果」(effect)の形而上学なのだ。

このあたりの科学哲学の議論って、とっても面白いのである。たとえば岩田健太郎さんの著作を読んでいて感じる感覚と同型の感覚が、青島さんにもあるなと感じた。それは、池田清彦先生の生物学の議論にも感じるところのものである。それは、科学を遂行する上で外部実在の実在性の仮定を、自分の論立てのなかに自覚的に取り入れているところだ。

岩田さんも疫学の議論をする上で、(哲学的には必要なのかもしれないが)疫学的には対象の実在を疑う必要はない、とみなしている。この辺りの哲学的にはややこしいところを実践的な身体感覚からすぱっと断じるあたりが岩田さんらしくて個人的には好きなのだが、しかしなぜ実在を疑う必要はないかについての議論の深まりはそれ以降見られないように思う。

そんな中、青島さんは、この記事のなかで薬剤の効果を認識するためにはその生理学的、薬理的、疫学的な対象の実在を想定しないことには薬剤の「効果」を認識することができないのではないか、しかしそこで想定される「実在とは何か」を洞察しようとしている(と桐田は読んだ)のがとても興味深いところだと思う。

池田先生は『構造主義生物学』で、科学は「形而上学的プログラム」だと看破している。比較的近著の『生命の形式』において展開されたポパーの3世界論を用いての生物学的な議論も、理論と概念の世界、主観的認識の世界、外部実在の世界という存在論的に立場の異なる世界の実在性をまず仮定するという形而上学的前提を採用することで成立している。

その意味で青島さんの議論は、ぼくには、池田・ポパーの3世界論的な3層構造を、戸田山の科学的実在論やハッキングの現象論を通して再構成しているようにも見えたのだ。そしてこの3層構造は、自分自身も取り組もうと思っていた科学哲学の一大問題系だったので、いまこうしてビールを飲みながらその感想を書き連ねているというわけである(どういうわけだ)。

さて、ここで問題になるのは、科学にとって実在、効果とは何かという問題だが、ぼくはこの問題の本質は実在性を擁護するか批判するかということにあるのではないんじゃないかと感じている。

むしろ、実在性realityとは人間の関心に応じて現象を操作し加工し析出することで得られる「効果」effectであると考えてみたらどうだろう、と考えている。

たとえばハッキングの現象論では、科学的に人間が意図して作り出す「実験」において析出される「効果」(放電現象など)を「現象」と呼んでいる。ハッキング自身はこの効果=現象を創造する実験をもって、科学的事実としての効果の実在性を擁護する向きに議論しているように見受けられる。

人間が意図的に実験的に作り出す「効果」としての現象は、ハッキングも言う通り複雑な自然現象のなかの「規則性」のことである。青島さんのいう薬剤効果とはその意味で薬学的な現象=薬剤の効果=薬剤の規則性のことである。ここでの規則性は因果関係や相関関係のことといってよいだろう。薬剤効果は、薬学的現象の規則性についての妥当性判断、その存在定立なのである。

ハッキングは哲学的で思弁的な現象概念を乗り越えようと実験的で操作的な現象概念を打ち出しているように見えるけれど、実際はおそらく、両者は矛盾しない。と書いたところでバッテリーが切れかけている。この続きは後日。

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