タカシムラカミ

きょう、羅漢図展を見に行った。言わずとしれた、村上隆さんの展覧会。

実は一度、Twitterでお話ししたことがある。とある芸術集団とTwitter上で軽く議論が白熱していたときに、若かりし自分がその議論の整理を勝手にしたのだった。

その時の様子がTogetterに残っていたなぁと思って読み返してみると、Twitter上で、村上さんは無名の人々に(クセはあっても)誠実に返答している。

作品を見た後で改めて感じたが、純粋な人なのだなぁ、と思った。初期の頃の映像を見たが、所作も視線もとてもピュアだ。

等身大フィギュアを作る眼差しに嫌らしいところはなく、オタクにも世間にもタブーであるものを創っていながら、眼がすっと通っている。

村上さんの作品はどんなに歪んでも、根本的に可愛いのだ。いわゆるカワイイではなくて、子どもの落書きを見たときに感じるような素朴な愛らしさなのだ。深さがないし、重みもない、つまり衒いがない。

しかしいまは、重さも深さも衒学さも得たいのかもしれない。アートワールドの重さ、日本のこれからのアートシーンを支えるに耐えうるだけの、重さ。スーパーフラットも、要は重厚なヒエラルキーに対抗するための武器だったのだから。

その状況変化の有り様がdob君に現れている気がしている。子どもの素朴さのある初期から、スーパーフラットに至り、次第にグロテスクに変化していく。アートワールドと日本の戦後史、美術史の重責が、ずしっと常に亡霊のようにまとわりつくようになる。

浅田さんも話題にしていたけれど、もし、村上さんがアートワールドの言説から離れたところで何かを描くなら。つまり、ただのらくがきを描くなら。そのとき逆説的に、日本ならではの軽妙洒脱で禅的でしかもポップな図が、出て来るかもしれないと思う。

今回、村上さんは神通力のある羅漢になったけれど、これから20年くらいで、アートのバブル的な虚無を引き受けるのでなく、ニヒリズムをどっかと抱えていなしてしかも笑って肯定するような、かつての禅僧が描いたような可愛い絵が出てきたとき、村上さんはもっと自由になるのかもしれない、と思った。

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