世界と知識

このあいだのインタビューのなかで、話してみて初めて気づいた話がいくつもあった(同時に、話しそびれたものもいくつもあった)。

自分のなかに潜んでいたアイデアだった、というよりは、おそらく論理構造として成立する条件がそのとき整ったのだろう。

そのなかのひとつに、自由になるための「相互承認」、そしてその相互承認を具体化するための知識との関係性についてのアイデアがあった。ながらく知識論を睥睨して回っていたことも奏功したのかもしれない。

各人と社会の自由を具体化するための「相互承認」を教育構想の「規範」とすると、能力や知識はどのように関連してくるのか。すべてはまだ考え尽くしていないので、いまのところのラフスケッチについて。

結論から言うと、知識は実存論的にはこの世界を了解し理解し解釈する、解読格子のような役割を果たす。

以前バズっていたツイートにもあったけれど、諸教科に固有の知識を得ることで、コップ一杯の水を社会学的な文脈や数学的な文脈、文学的な文脈などさまざまな文脈から理解することができるようになる。

それは自分の「世界」(Welt, world)を拡げることであり、自分とは異なる世界に住む他者の世界への通路を開くことでもある。ハイデッガーが洞察していたように、「世界」は人間の「関心」に応じて現れる「有意義性の連関」なのだ。

わかりやすく例を挙げてみる。たとえば車好きのひとの「世界」では、ある車種のあらゆるバリエーションとその歴史とが、有意義なものとして相互につながっている。

そのつながりが他ならぬ自分や、メーカーの技術者や、愛好者たちなど他の人間たちとのつながりも生み出し、ひいては生産する場所の地理的条件や国家間の地政学的条件などともつながっている。この車への関心から拡がっていく有意味なものの繋がり、それが車好きの「世界」なのだ。

もちろん、この車好きの「世界」は、車への関心に応じて現れる。自分の関心からずれたところにあるもの、つまり基本的に無関心であるところのものについては、ぼくたちは体験していてもその有意味さを経験できない。

たとえばある車種に特徴的なエンジン音を、まったく車に興味のないぼくと車好きの友人とが聞いたとする。友人が聞いた音と、ぼくが聞いた音とは、物理的には同じ音である。

しかしぼくが聞いた音は、彼が経験しているであろう微細なレベルで分節化された有意義な音(どこどこの、いついつの、なになに製の、どこどこが改良され、どんな風に評価されているエンジン)ではない。

その意味でぼくの世界ではそのエンジン音の有意味さが直観的に理解できない。理解するには、彼の世界を成り立たせている関心を、じぶんのなかに入れ込んでみることが必要なのだ。

この辺りの議論は、他者論も絡み合う大難問になっているためこれ以上議論はできない。けれど、こうした関心の相違による世界間のディスコミニケーションは、卑近なところでは文系理系の壁、よりシリアスなところでは異文化、多宗教、多国家間の壁として存続している。その壁に道を創るひとつの方法が、知識なのだ(勿論他にもたくさんある)。

しかし、大抵は教わった知識が果たす役割がどのようなもので、何のために使われるものなのかが、知識そのものを知ってもわからない。この知識の目的論(何のためか)を解明することが、教科教育の哲学において必要になる。

この辺りのことを、教科教育の哲学研究会ではぜひともやりたいのだ。こうしてぼくの専門性はより一層拡散していく。

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