世間と余白

哲学するとはどういうことか、について考えを巡らせている。科学哲学や実存哲学、社会哲学に環境哲学、分析哲学などなど、哲学も多種多様な分野をもつものではあるけれど、その本質は何なんだろう?と。

そんなことをうろうろと考えていた時、以下のような記事をfacebookやtwitterを通じて拝読させていただいた。帰国子女の女子高生の林さんと、東京大学の教授である梶谷さんの投稿。ともに、「日本には哲学や社会情勢について話せる場所がな」く、さらにいえば「日本には何でも話せる場所がない」という問題提起。

結論から言えば、これらの問題が直面していることは、「世間的な会話(特定の役割に応じての会話)ではなく、一人の人間として、互いの関心を交換し合うような対話をする雰囲気がない」ということなのだろうと思った。

「日米の教育の違いを帰国子女という視点から考える」http://philosophy-zoo.com/archives/4713

「考える自由のない国―哲学対話を通して見える日本の課題」http://www.projectdesign.jp/201601/ningen/002667.php

とくにぼくは、梶谷先生の以下の言葉に軽く戦慄を覚えるとともに、激しく共感してしまった。

私自身、ワークショップを開催するほか、小学校や中高、都市や地方の地域コミュニティ、高齢者の集まりの場など、様々なところで哲学対話を行ってきた。そうした活動を通して、これらに共通する問題が見えてきた。それは自由に話し、自由に考えられる場がないということ、そして、その結果、自分の行動、自分の生き方に責任がとれないということである。

このことは、以下の林さんの記述を合わせて考えると、教育という課題にとって著しい問題であることがわかると思う。彼女が帰国子女と日本人の違いについて話している箇所である。

一番この違いを感じるのは、自分の夢や哲学や社会問題について深く考察しても、それを共に議論し深める友達がいないと感じるときである。私は日本の高校生として、よく友達と悩み、話し合い、解決を目指しているが、その内容は主に人間関係、試験、恋愛、受験など自分の目の前にある事象に限られている。私は考えることが好きで、哲学について、あるいはニュースで話題になっている事件についてよく思考をめぐらせているが、いくら自分で深く考えても、それらを話し合うような空気が友達との間にないのである。

おもえばぼくの高校時代もそうだった。9.11やイラク戦争のことについて話したかったが、話せる友人はほぼいなかったし、哲学的なことを考えていてもそれについて話せる友人はほとんど限られていた。しかも、話せたとしてもなかなか深まらない。自分の意見を主張しあうだけに、なってしまいがちだった。

死ぬことや生きること、自分のことや社会のこと、働くことや愛すること。他ならぬ自分自身に関わることであるはずなのに、なぜか話し合えない「雰囲気」(mood)なのである。

こうした人間の行動や感情を左右する「雰囲気」に関する研究はハイデッガーやシュッツ、ベーメなど現象学のなかでも継承関係のあるテーマだが、このあたりの「雰囲気」を日本にいかに醸し出していくか。これが今後、求められていくことなんだろうなと感じる。

そのための、何を言ってもいい場所、何を書き込んでもいい場所、何もないままにしてもいい場所…ぼくの気に入っている言葉で言えば、「余白」を生み出していきたい。

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