問いと、必然性

子どものための哲学について、国内外の実践事例を調べながら、うーん、と考えてしまう。

既成のワークや実践に対する子どもたちの感想を読むと、全員ではないが一定程度「答えのない問いを強いられることへの反感」を持たれている。その感情は他ならぬ自分がかつて感じたことでもあったから、改めてきちんと考えておかなければと思う。

高校時代、選択倫理の時間に柄谷行人の『倫理21』のレジュメ切り&討論という授業を受けたことがある。

いまから考えれば高校三年生に柄谷行人のレジュメ切りをさせて討論の機会を持たせた先生の判断にいろいろ思うところがないではないのだが笑、

その当時の自分は「先生が生徒に考えて欲しいテーマを既に持っているのに、なぜ俺たちに1から考えさせるんだ」と感じていた。実際、反感を覚えていることを先生にお伝えしたときもあった。

そのとき、先生がなんと応えていたかは覚えていない。しかし自分自身、そのとき哲学にハマり始めていた頃でもあったので、あらゆる学業も出席もそこのけにそのレジュメ切りに熱中した(奇しくもそれは現象学的還元を取り上げていた章だった)。

自分にとって無視できない様々な難問に直面したときだったからこそ、哲学について考える自分なりの必然性があった。

けれど、問いに内的な必然性を感じていないときに、対話は成立するんだろうか?自分が考えたいことなのだという必然性を伴わない対話に、モチベーションは上がるのだろうか?

おそらく否だろうし、これは対話的なワークにおいてあてはまる本質であるようにも思う。

じゃあ、哲学対話の本質的な価値とは何だろう。

哲学が平凡な事柄に潜む前提を問うこと、そして対話は自分も相手も互いに持論の外に一端出て合意や相違点を明らかにすることだとすれば、

哲学対話の本質は、平凡な事柄への問いから、互いの前提の合意や相違点を明らかにすること、だと言えるかもしれない。

では、哲学対話の価値に関心を持つ契機とは何だろう。一見平凡に見える事柄がもつ本質の深さへの驚き、あるいは、相手と考えを共有する歓び、だろうか。ならば、そのような体験はどのようにすれば提供できるだろう?

既成のワークをなぞることも出来るけれど、それではなんだかつまらない。うーん、考えることは、当たり前ながら多いなぁ。

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