尊重とは何か

リレー記事、こんなに展開するとは笑。

リレー記事を観ていくと、対話が常に遅れて生じ、その意味も論者の無自覚な関心に応じて自ずからずれ、解釈を含みながら自分なりの知の領地で活性化されていく様子がよくわかる。そうした解釈の展開はその意味で必然的なのだけれど、まるでデリダの郵便論の実践のようだな、と感じる。

そこには、デッドストックになった(あるいはボトルネックになっている)意味がある。今回はそのデッドストックになっている意味をひとつ、解明しておきたい。

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さて、ぼくは先のリレー記事で「現象と構造」と銘打ったときに、構造の成立要件として「態度」(attitude, Einstellung)という概念を用いた。この態度という概念を用いたきっかけになったのは、実践的・実存的な作業自体の目的を確保するには、「現象の尊重」では包括的にすぎるのではないか、その人なりの世界に相対する「態度」を尊重していると言い換えた方がよいのではないか、という疑念だった。

この疑念に対して京極さんは一部同意しつつ、信念対立という文脈では態度の悪いひとの「現象」を尊重することはできるかもしれないが(「態度の悪い人にも何らかの立ち現れがあったんだろう」)、横柄な態度そのものを尊重することは難しいという事例を引いて、一部反駁されている。

このことから、実用的には現象でも態度でもどちらでもかまわないが、現象の方が尊重しやすいのではないか、とされている。確かにその通りだとぼくも思う。しかしほんとうに細かい話だけれど、京極さんの論立てには2つ誤解がある。1つは、態度概念の意味についての誤解、2つは、現象概念の意味についての誤解である。

ぼくのいう「態度」は、関心や目標を方向付ける習慣や生活の「様式」(style)のことで、いわゆる態度の良し悪しのような「振る舞い」(behavior)のことではなかった。そして、この意味での「態度の尊重」は、認識論的な底板としての「現象の尊重」と同じくらい、原理的にも実用的にも必須だろうと考えていた。

この辺りのことを話し始めるとそれこそ時間も紙面も足りないのだけど、さしあたりは態度について話してみる。

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態度という概念は、態度決定や態度変更、自然的態度や超越論的態度、現象学的態度等々と、フッサール自身がよく用いていた概念である。そして先の記事を書いたとき、ぼくは”Crisis”所収のVienna lectureでの意味合いで用いていた。

Attitude, generally speaking, means a habitually fixed style of willing life comprising directions of the will or interests that are prescribed by this style, comprising the ultimate ends, the cultural accomplishments whose total style is thereby determined. The individual life determined by it runs its course with this persisting style as its norm. (“Vienna Lecture”)

態度(attitude)とは一般的には、関心あるいは意志の方向性を構成する意図的な生の、習慣的に規定された様式のことを意味する。その関心あるいは意志は、究極的な目標を構成し、文化的な業績の全様式を決定づけているこの様式によって規定されているのである。それによって決定づけられている個人の生は、この持続的な様式と共に、それ自身を規範として営まれる。

まとめると「態度」とは、特定の志向、行為、目標、関心を方向付けている生活の様式のことである。よって、その人の「態度」を尊重するということは、その人の習慣やライフスタイル(生き方)に配慮するということを意味する。

ちなみにフッサールは、世界の中に自然物が実在すると考える自然的態度や、人間はみな個性的な心をもつと考える個人的態度、そして心や物が実在するといった判断を保留する現象学的態度など、さまざまな態度論を導いている。

これらの態度論を踏まえると、存在・意味・価値(例:自然や心)をこの世界に実在するものとみなすような「生き方」について考えるときに、「態度」という概念が使われているといえる。その意味で態度の選択は、名声や栄誉、幸福など、文化的な意味や価値が実在すると考える「生き方」の選択とすら言えるかもしれない。

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さて、この意味での「態度の尊重と重視」は、信念対立解明の文脈において原理的にも実用的にも重要だとぼくは考えている。その理由は3つ。

第一に、相手の振る舞いや言動の背後にある「態度」(習慣的な生活様式)を重視することが、信念対立の解明を促すものであること。

たとえば人を傷つける振る舞いをするひとの信念の解明をする際に「そうすることが当然になる何らかの経験や、その振る舞いに価値をおく信念があったんだろう」と考えることは、その人の習慣や生き方の理解を重視するということだ。

第二に、自他にとって顕れている「経験」(京極さんの言う「現象」)の違いを尊重しようとする「態度」が、信念対立の解明態度において重視されていること。

これが、「現象の尊重」という言葉で具体的に意味している事態であろう。『解明アプローチ』で京極さんが「現象」を「経験の顕在性」として再定義していることもあり、ここでは「経験の顕れ」というコトバを使うことにした。

余談だが、構造構成主義でも解明アプローチでも、認識論の文脈での「現象の尊重」が、実存論の文脈に過度に転用されているきらいがある。認識論的には現象は、形而上学的な仮定を置かずに、感性的な知覚やカテゴリカルな直観などの認識の構成を把握するための基盤となる概念だ。

一方、実存論的には現象は、(ハイデッガーが宣言したように)形而上学的なオトギバナシに依らずに、人間存在を了解し理解する基盤となる概念だ。その意味で「現象の尊重」とは既存の人間理解を保留し「現象」に還元することから考えることであるはずなのだが、どこか「経験の不可侵性」のような意味合いになっている。そのように経験されていること自体は、侵すことはできない、という。

ともあれ、上記二つの解明アプローチ等でのいわゆる「現象の尊重」が可能になるためには、以下のような態度論の議論が必要になってくると、ぼくは思う。

第三に、その人の「態度」と「経験」を尊重するということは、その人が経験したであろう内容とその経験によって培われたであろう態度を想像し、その想像された態度を他ならぬその人に「帰属」(attribute)させつつ、その帰属を「保留」(suspend)する「尊重的態度」をもつということ。

この第三の理由は、京極さんが「原理として現象が底板にあるということと、実際に何を尊重・重視するのかは別の問題なのかもしれません。」と話していることと直に関連している。現象は認識や実存について考えるための基盤ではあっても、実際の実存的な関係において尊重され重視されている当のものではない。

むしろ、その人にはその人なりの思いや願い、経験が実在するとみなす文化的な態度、「尊重」(respect)という「態度」こそが重視されているのだと思う。では、その人なりの思いや願いを、わたしたちはどのように理解しているのだろう?ためしに、こうした人間理解を「現象」に還元して考えてみよう。

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たとえば、街行く人のことを考えてみる。街行く人を見ていると、角を曲がったり、店に入ったり、人と待ち合わせたり、その道の先のどこかへと「向かおうとしている」ことがわかってくる。喫茶店に入ってみると、喫茶店でノートと教科書を広げて何やら一心不乱に書き込んでいる高校生がいる。そのひとを見ていると、彼がこの喫茶店に「勉強しに来ている」ことが次第にわかってくる。

と思っていると、しばらくしてその高校生の友人らしきひとがやってきて、一緒にノートを広げて何やら話し合っている。その人は「友人と一緒に勉強しに来ていた」のだろうとわかってくる。しかし、その隣に声量の大きいおばさんたちがやってきてしまった。高校生たちは眉をひそめて、そそくさと片付けて喫茶店を去る準備をし始めた。その様子を見ていると、彼らはおばさんたちの登場を「自分の勉強を阻害する出来事」として経験しているらしい、とわかってくる。

このように「振る舞い」を見ているだけで、ぼくたちはその人が「何をしようとしているか」(志向性)、「何をどんな風に体験しているか」(経験)がわかる、と思えてしまう。もちろん実際には、それらはぼくたちの想像の範囲内を出ないものだ。しかし、それでもその人の志向性とそれに応じた経験がわたしに直観されていると確信されてしまうのは、いかにしてなのだろうか。

ここで参考になるのが、原因帰属理論の創始者Heiderが行った、現象学における人-知覚の解明だ。詳しくは説明できないが彼によれば、さまざまに変化していくその人の振る舞いの変容(variant)のなかから、そのように振る舞う願いや動機、目的といった不変性(invariant)を抜き出す「帰属」作用によって、人の志向性は”知覚”されているのだという。

この帰属の考え方から眺めてみれば、先の事態をその都度変わるその人の振る舞いに対して、特定の志向性の「帰属」が起きていると考えることができる。よって原理的には、「他者の経験」とは特定の他者に「帰属」(attribute)された志向的経験のことに他ならないといえるだろう。

なぜなら、なんらかの経験はつねに特定の志向性に応じて存在し、意味づけられ、価値づけられていると考えられるため、他者が経験している具体的な内容を尊重するには、大前提としてその人の志向性を”知覚”していることが欠かせないからだ。

たとえば横柄な振る舞いをとるひとを、「こちらに迷惑をかける意図」を持っているひとだと”知覚”してしまうという文脈がなければ、「あの人にもなんらかの経験があったのだろう」と配慮する意味がうまれない。

その意味でも、他者の経験を「尊重する」ということは、①他者に帰属させている志向的経験を改める態度、②他者に帰属させている志向的経験を「保留」する態度を選択するということを意味するといえよう。

わかりやすくいうと、前者は、他者の振る舞いや言動に即して「そうか、この人はこの出来事を、このように経験している(いた)のだ」と考え、後者はそのように帰属させた経験を保留し「いや、この人はこの出来事を、あのように経験している(いた)のかもしれない」と考えることを選ぶということだ。

つまり、信念対立の解明において重視されているものは、他者に対する特定の志向性の無自覚な「帰属」を保留しつつ、他者に即して改めようとする「態度」なのである。この「帰属の改定と保留」こそ、他者の経験をぼくたちに開示させてくれる当のものであり、ぼくの理解では、この態度が「尊重」の本質である。

「あの人にも何らかの立ち現れがあったのだろう」という言葉は、あの人が経験しているかもしれない内容や、その経験によって培われたかもしれない「態度」を、空欄のまま、あるいはカッコに入れて、つまり「保留」して、その人に「帰属」させることで成立している。

そこには隠れた前提としての文化的習慣、いわば「尊重的態度」があるのだ。

原因帰属理論の現象学的再検討は、近年取り上げられているトピックということもあり、今後の展開を愉しみにしている議論の1つである。その議論の深化に応じて、解明アプローチももっと深化できるだろう。ぼくはそれも楽しみである。

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