エンド記事:危険な尊重

長らく続いたリレー記事も、これでそろそろ終わりにしよう、という意味でエンド記事。

京極さんからの「最初からそう論じてくれよ」との言葉を読んで申し訳なく思った。自分なりに「態度」のあとにattitudeと書いたことで、これがフッサールの用語であることを示そうとはしていたのだけれど。

さて、以前の記事で書き損ねていたことと、今回の記事を通して感じたことについてちょろっと書いておきたい。

「尊重」とは、実際危険なものだ。特に、「相手の経験を尊重する」という態度は、使い方を誤れば「上から目線性善説」と同じレベルのものとして受け取られる可能性が高い。

「上から目線性善説」とは、悪い人間はある不幸な出来事でねじ曲がってしまっただけで、本来はみな善い人間なのだと見る、『めだかボックス』というかつて少年ジャンプに連載されていた漫画の主人公が則っていた説だ。

この主人公は、ほとんどの悪人に対して「きっとこういうことがあったから、そのようにねじ曲がってしまったのだろう」と宣言する(文脈としては「ギャグ」なので、セリフ自体はそこまで重くない)。

これは、相手の関心や欲望を変えた経験(相手の過去)をこちらが一方的に帰属させている点で、対等な関係とはいえないだろう。しかし主人公は、相手に配慮し、その本来の願いを尊重しているつもりなのである。

人間関係での信念対立に対してメタな立場に立つと、自分だけが俯瞰的な立場に立っていると誤解したり、相手の心(信念)を勝手に規定したりしてしまいやすい(だからこそ、自覚的に解明態度を養う必要がある)。そのようなとき、相手は自分が対等な人間として尊重されていないと感じるだろう。

尊重とはどうすることなのか、自分でもまだ答えは見いだせていない。今後も考え続けるトピックのひとつであることには、変わりない。

さて、このリレー記事を書きながら読みながら、哲学的な「対話」ができる胆力を維持することが、どれほど難しいかを、自戒とともに感じている。対話の胆力を維持するということは、自分の作り上げた考えや理路を崩し、新たな何かをつくろうとする用意がいつでもできているということだ。

俺はフッサールを読んでいくたびに、このひとはほんとうに単なる「現象」のレベルから、ひとつひとつブロックを積み上げ、途中で矛盾や別のアイデアが浮かんだらそこまで辿り直して壊してさらに積み上げていったひとなんだな、と思う。すごい、と素直に思う。

フッサールは「哲学とは平凡な事柄についての学問だ」と話している。平凡な事柄に驚いて、それがどのようにして可能になっているのかを考えると、意外に奥の深いことがわかる。その繰り返しだと。

その繰り返しは、とても地味だ。社会や世界や現代のことについて「こうだ!」などとはとても言えないのだ。物、人、知識、認識、意味、価値、そうした基礎的なブロックをこつこつとつくり、組み立てる。その繰り返しによって積み上げられた建築物を、誰もが住むことができるものにしたいのだ。

人類史上、思想の言葉、宗教の言葉が人々の争いを生み出してきた。争いを生み出すことのない思想の言葉などは、きっと存在しないのだろう。けれど、それを作ってみたいのだ。それがきっと、思索者としての俺の夢なのだ。

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