作業と、教育

京極さんがぼくのリレー記事にリレー記事を書いてくださった笑。こうした応答関係があることが嬉しい。京極さんの書き方を見ると、毎度どうも自分の書き方はむずかしく書いてあるなと感じる。そのあたりもブログ記事の投稿を通して改善していきたいところだ。

さて、京極さんのblog記事から触発されて思うところはいろいろあるのだが、この記事で伝えられるだろうことは「作業って、いいよなぁ」ということだ。

作業療法士はクライエントの行為が意識と環境に相関的(≒弁証法的)に構成されている状態を適切に評価し、必要に応じて介入しないといけないということになります。

評価は、クライエントはどういう興味関心を持って世界と関わっているか、どいう身体で世界に参加しているか、あるいは自身の身体や行為をどう対象化(認識)しているか、作業をどう体験しているか、などといった切り口から行うことになります。

介入はそれを踏まえて、クライエントがより満足できる状態になれるように支援していきます。

作業療法は哲学的実践論という側面があるのです。

京極さんのこれまでの投稿のなかでもすでに言及されているが、作業療法の根幹のところにはプラグマティズムが存在している。昨今教育界で流行っている(揺り戻しがきているだけでもあろうけれど、これが流行で終わって欲しくはないなぁと個人的には思っている)「探究」(inquiry)概念を打ち出したのもプラグマティズムだ。その意味では、「作業」(occupation)による癒しが作業療法とするなら、「作業」による教育が探究学習だともいえるだろう。

最近はPBL(problem-based learning)や探究に基づく学習(inquiry-based learning)など、国際的にも教育界では問題解決学習、探究学習への機運が高まっている。これらの根幹にももちろんプラグマティズムの思想がある。けれど、そこに上記のような「作業」の観点が存在しているのか、ちょっと疑問だ。

というのも、なんらかの問題があればよい、探究的な活動が起こればよい、という本末転倒が一部で起きている気が、しなくもないのだ。デューイは『学校と社会』のなかで、自身の作業教育観について次のように述べている。

私がここで言う仕事とは、子どもの側から率先して行われる一種の活動形態を意味しており、しかも、それは、社会生活の中で実際に行われているようなある種の作業を、再現したり、あるいは、それと類似の形で行われたりするもののことに他ならない。(『学校と社会』、強調引用者)

したがってここでの目的は、子どもが、生活から切り離された場所としての 学校へ行くということにあるのではなくして、むしろ、学校において、学校外での子どもの経験の典型的な諸局面を要約的に反復表現し、それによってそ の経験を拡大し、意味の豊かなものとして、しだいに、系統立ったものへと発展させていくことにあるのである。(前掲書)

仕事を以上のように解すると、したがって、それは、ある職業のために教育することを主眼とする作業とも慎重に区別されなければならない。それが異なるのは、ここで言う仕事の目的は、それ自体にあるのであって、外部的な効用にあるわけではないからである。すなわち、 その目的は、諸観念と、それらが活動の中で具体化された結果との絶えざる相互作用から生じる成長ということにあるからである。(前掲書、強調引用者)

ここで再び、期せずして「それ自体」という言葉に戻ってきた。学習者たちは、学校の外にある社会や自然と相対している。そこで得た気づきや関心を家庭や学校で、誰かとの協働関係のなかで自分たちもやってみたいと関心を持ち願うときに、それは「作業」となる。

なにも難しいことではない。たとえばお店屋さんごっこだって立派な「作業」だ。それはもちろん、後に「起業」するための職業準備教育などではない。学習者たちにとって、その作業の目的は「それ自体」にある。メルロー=ポンティの言葉で言い換えれば、「実践的志向の内在的目標」として体験されているのだ。

お店屋さんを実践するということは、お店屋さんを外から見ることなのでない。実際に商品をつくり、値段を決めて、売り場を作り、一緒に働いてくれるひとを集め、買ってもらえるよう工夫をし、売り買いのコミュニケーションをとる、といった経験の連続を体験するということだ。

そして、それぞれの経験において、達成したい「目標」はそれぞれの作業に内在している。こんな商品をつくりたい、これぐらいの値段にしたい、すてきな売り場を作りたい、などなど。

そうした作業の結果、当然うまくいかないこともある。お金の計算ミス、売り場の高さ設定のミス、売り文句のミス。そうした結果と相対して、今度はどうしようかと考え、実践する。こうした結果との相互作用のなかで、教科知識や道徳性を次第に系統立ったものとして発展させていく。この作業による「成長」が、デューイの作業教育、探求学習では目がけられているといえるだろう。

学校の外での仕事だって、「すてきなお店を作りたい」といった個々の作業への意欲から始まっている。しかし学校のなかでの学習となると、まだ子ども(準備段階)なのだからと、こうした意欲を取り除いて、基礎基本という名目で教科知識を学んでから実践に移るべきと考えてしまうことが多い。

なぜか。おそらく学校は(病院も)人間が構築した制度的な存在だからだろう。そのため、その機関の「内」では外とは別の論理が働くべきだという前提が、いつのまにか入り込んでしまう。デューイの卓見は、人為的・近代的機関の外と内をつなぐ鍵概念として、「作業」を置いたことだともいえるだろう。

作業療法と作業教育との共通点は、そんなところにもあるのかもしれない。

“作業と、教育” への4件の返信

  1. ピンバック: 実用と原理 | Play
  2. ピンバック: 尊重とは何か | Play

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