リレー記事:現象と構造

京極さんのblog記事を読んで、この視点は面白いなと感じた。そこで思いついたことを、久しぶりに書き込もうと思う。

京極さんはこの記事で、教え子である織田さんのblog記事から目的・手段関係にない「作業それ自体」を尊重する態度を、「現象の重視」という概念で言い換えたのだろうなと思った。以下は織田さんの記述。

それ自体.そこにボールが転がっていれば,蹴りたくなる.そこに棒があれば,振りたくなる.魚が泳いでいれば,捕まえたくなる.泳ぎたくなる.山があれば,上りたくなる.その湧き上がってくる感覚に身を浸し,自然と体が動く,その感覚にまたからだを浸す.それによりこころに広がっていく感情をからだで感じ,それにもまた浸っていく・・・.それ自体を,ひたすらに,それでいて自由に,ただ感じていく.そんな「それ自体」の体験.そんな視点も必要なのかな?と思いました

織田さんは、心理学でいう「アフォーダンス」や、デザインの分野で取り上げられている「シグニファイアー」が志向している事態と近しい事態に着目されているように感じた。外界に自存する対象の性質や形態が、人間に対して特定の行為や行動を動機づけていく。

こうした理路で陥りがちなのは、外界の「対象それ自体」が人間の「作業」を動機づけている(これがある→こうしたくなる)という前提が入り込んでいるために、対象が動機づける作業の潜在的な「(不)可能性」を見落とすことがあるということだろう。この図式では、いわば行動主義的な「刺激反応の総和」としての行動にしか着目できない。

たとえば、これがあっても、それをしたくないということがありうるし、これがないのに、それがしたくなるということがある。同じ状況でも、ある反応をするひともいれば、その反応をしないひともいる。暴論すれば「作業」とは、身体と関心に応じて現れる「行為の意味」なのかもしれない。では行為の意味とは何か?

詳細は割愛するが、「行為」に実存的な意味を生み出す構造があることを見出したのがメルロー・ポンティだということを踏まえれば、行為の意味がひとの生にとって重要なことであることは論をまたない。たとえば、以下の彼の論述は、織田さんのいう「目的手段関係にない作業それ自体」の意味や、体と心が通い合っていく感覚の尊重を言い当てているように感じる。

行為の目的と手段の分析にとって代わるのは􏰀、行為の内在的意味と􏰀、その内的構造の分析である。この新しい観点からすれば􏰀、仮にすべての行為が生への適応可能ならしめるとしても、􏰉生という言葉が􏰀 動物と人類とでは意味を異にし􏰀、また<生>の諸条件もその􏰉種􏰊の固有の本質によって定義されるものだということに気づくであろう􏰁。もちろん衣服や家は􏰀われわれを寒さから護る働きをし、􏰀また言語も集団労働を助け􏰀無機的固体􏰆の分析を助けるものである􏰁。けれども衣服を着るという行為は􏰀、装飾の行為や􏰀さらに羞恥の行為となり􏰀、かくして自己自身や他人に対する新しい態度を開示する。􏰁(『行動の構造』)

グラウンドは􏰀彼に与えられているのではなく􏰀、彼の実践的志向の内在的目標として現前しているのである􏰁。競技者はグラウンドと一体となり􏰀、たとえば􏰀 、『目標』の方向を􏰀、自分自身の身体の垂直や水平と同じくらい直接に感ずる􏰁。意識がこの環境にすみつくのだ􏰀、と言うだけでは不十分であろう􏰁。意識とは􏰀、この瞬間􏰀、環境と行為との弁証法以外の何ものでもないのである􏰁。競技者の試みる駆け引きが􏰀 そのつどグラウンドの様相を変え􏰀、そこに新しい力線を引き􏰀、そして今度は行為が􏰀、ふたたび現象野を変容させながら􏰀、そこに繰りひろげられ􏰀、実現されるわけなのである􏰁。(前掲書)

さて、こうした行為のもつ実存的・実践的な意味志向、瞬間瞬間の現象変容と身体意識との浸透関係を尊重する際に、目的手段関係でなく行為の内的構造の分析が重要になる、という彼の指摘はとても同意する。この観点からすると、京極さんの「現象の重視」という態度がとても重要なこともわかると思う。

ぼくの理解でいうと、これは無目的の目的性ということすらエポケーするマインドフルネス作業療法の真骨頂で、作業を通して立ち現れる現象にしっかり意識を向ける(という感覚すらも保留しながら)という意味で受け取ることができます。

それによって、「目的は達成できたかどうか?」「目的にあったやり方でできたか?」「目的は妥当なのか?」「そのやり方は正しいのか?」などといった問い自体から解放され、現象を通して癒される可能性を確保できるからです。

作業を通して立ち現れる現象を重視することで、目的手段関係にとらわれず、その現象から癒される可能性を確保できる。確かに。だけれど、これではあまりにも底の底すぎて、そのひとにとっての行為の実存的・実践的意味志向や環境との浸透関係を尊重する態度を導けないようにも思う。

構造構成主義の諸原理は、底の底すぎて「なんでも包み込めてしまう」概念になってしまうところがある。古い言葉で言えば内包と外延の対応関係がリジッドではないのだ。現象と構造の差異は、意外にあいまいである。端的に言えば、構造構成主義は各人に成立した経験的・認識論的・存在論的構造を、「現象」として包括的に尊重するのである。

しかし原理的に考えるなら、おそらく尊重され重視されているのは自己や他者、世界や行動に相対する各人の「態度」(attitude)である。その意味でぼくは、各人の態度を尊重するために、メルロー=ポンティの行動構造論から考えることを勝手ながらお勧めするものである。尊重されているものは底の底というより、おそらくは「ドア」なのだ。

“リレー記事:現象と構造” への3件の返信

  1. ピンバック: 実用と原理 | Play
  2. ピンバック: 尊重とは何か | Play

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中