子どもに学ぶとは、教育実践のなかでよく言われることだ。大まかに定義するなら、自他の世界観を変えるような気付きを、子どもたちの言葉や振る舞いから得ることを言う。
子どもに学んでいるひとに出会い、子どもについて話しあい学びあうとき、なんとも言えず幸せな気持ちになる。
おそらくそれは、子ども(学習者)を見つめることを通して学び合う大人同士が、子どもも大人も含めた「人間性への信頼」を確かめ合っているからなのかもしれない。
しかし、そのような場が貴重な場であったことを、最近とみに痛感している。大学院から教育畑に入り、そこで学んだ校内研や公開研で子どもを見つめる「当たり前」は、実は当たり前ではなかったんだと。
教師や研究者が編み出した授業の仕掛けや、システム、アプローチ、思想の批判や検討…。子どもの学びの姿は、その仕掛けの実証という意図に隠れて、なかなか見えてこない。
今そこで生きている子どもの学びの可能性は、本の中には書かれていないし、私たちの記憶のなかにもない。よく言えば、そこにはヒントがたくさんあり、悪くいえば、落とし穴もたくさんある。
この困難を分かち合うところに、おそらく教育学はその成立根拠を持つ。教えるってどういうことなんだろうと問い迷うところ、そこから教育学は芽生える。
この問いに応えようとしてきた何千年の営みのなかにちっぽけな自分がいることの不思議を思いながら、「当たり前」を当たり前にしていくためのスタディツアーや研究会をこれから企画していきたいと思う、そんな夜だった。