一昨日のこと。中学時代にお世話になりそれ以降も度々お世話になっている、地元の塾の塾長さんと久しぶりに熱く議論してきた。
これまでも会う度に新鮮な驚きと洞察を与えてくれて感謝しきりだったのだけれど、昨日はさらに凄い議論になった。
勉強に意味を見出せず、やる気がそがれているこどもたちは、多いと思う。こんなこと勉強したって意味ないし、ゲームやってたほうが何倍も面白いよと。
しかし塾長曰く、「無意味なものにすら、実は“意味”があるんだ」。どういうことか、自分なりに解題してみる。
日常的に考えれば、無意味で無価値だとしか思えないようなことは誰もが避けようとする。意味の無いことにひとは耐えられないし、価値が無いと感じていることをするのは苦痛だ。
けれど、無意味で無価値だと感じるものと出遭ったとき、自分が本当に出遭っているものは一体何だろうと考えてみると、
そうしたものを無意味で無価値だと思う、自分自身の価値観なのではないかと。端的に言えば、おのれ自身と出遭っているのではないか(禅問答そのもの)。
この考え方に立つなら、すなわち、この世の価値は(多かれ少なかれ)自分の価値観を反映しているものと捉えるなら、
有意味と感じられるものはもちろん、無意味だと感じられるものを通してすら、ひとは自分の価値観を学ぶことが出来る。
しかも、有意味なものだとその意味や価値に引っ張られて頑張ることができるけれど、無意味なものの場合、頑張る原動力を自分にしか見出すことが出来なくなる。
つまり、自分の価値観に向き合わないと頑張ることができない仕掛けになっている。
くそ、間違えた、やり過ごそうか、見直そうか。お、今度は点数がよかった、もう安心だ、何もしないでいいだろう、いや、念のため合っていた問題も確認しておいたほうがいいかな。
こうした迷いにおいて、こどもたちは自分の価値観を変える機会と出遭っている。だから、無意味なものにすら意味はあるんだと、塾長は考えているのかな、と(ちがったらすいません)。
さて、こうした考えを塾長は禅から得たと言っていた。そこで思い出された禅の言葉で、この解題を閉めてみたい。
臨済録の言葉に、「仏に会えば、仏を殺せ」という言葉がある。正しいことを説く外部のものに依存せず、自分にこそ判断の根拠を持てというメッセージと理解している。
この言葉に対し、実は芸術家の岡本太郎さんが面白い解題をしている。彼は『自分の中に毒を持て』のなかで、「道で仏に出遭うわけはない。むしろ出遭うのは己なのです。そうしたら、己を殺せ」と言い換えていた。
あらゆるものが自分の価値観や世界観の現れだとしたら、あらゆるものを通してその判断の根拠である自分と対決することで、より自分を高めていく契機を得ることができることになる。
学びとは、実はそれほどの覚悟のもの、なのかもしれない。