遺品と、沈黙

今日の午前中は、国際会議で発表した内容の論文化(頑張ればハンドブックに掲載予定?)に取り組んでいた。締め切りが早くなってしまったので、急いで取りかかっている。

午後は妻と、渋谷はイメージ・フォーラムにて小谷監督の『フリーダ・カーロの遺品ーー石内都、織るように』を観てきた。ほんとうに素晴らしい、映画で。

これまで、映画でも何でも感激するとたいてい批評みたいに論じてきたのだが、

今日は見終えたあとに、「これは感想を言葉にはしたくないな」と率直に感じた。なんと、妻とも意見が一致していた。

言葉にすることで、確かに抜けていってしまうディテールが、感情がある。

言葉には、経験したことを伝える機能もあるが、語られたことだけが自分が経験したことであるかのように、自分にも相手にも錯覚させる機能もある。

感想を話してみて、それだけじゃないんだけどなぁ、と経験と言葉との齟齬を感じられるうちはまだいいのだけれど、いつの間にか経験に言葉がぴったりはまりすぎてしまうときがある。Aときたら、Bでしょ!みたいな。

そうすると、自身が経験したことの意味を、いま自分で語れる範囲の意味で狭めてしまう回路や、ひとには言葉にしたくない経験もあるということに思い至らない回路が出来てしまう。

自戒を込めて、そう思った。最近読んだ『子どもと本』にも書かれてあったが、読書だって、感想や批評をそういつも求めなくてもいいはず。

沈黙を尊重することは、その経験の意味をその経験自身に還して、いずれ生じるかもしれない言葉が来るのを待つという構えでもある(そして、言葉が来なくても良いとも思う。経験は経験として蓄積されていく)。

今日はこの経験を大事にしたいから、まだ言葉にしたくないなと思えるほどのその意味を、じんわり味あわせてくれた小谷さんの映画、そして石内さんの写真に出会えて、とても幸福な一日だった。

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