今日は、I先生のご好意で某市の学童のキャンプ(遠足?)に参加&参観させて頂いた。
先生の娘さんが通われている公立の学童のキャンプだったのだが、この学童、今年からNPOに委託されたところ、とってもよくなったのだという。
詳細は割愛するが、かつては学校よりも学校的だった学童は、今やこどもたちにとって「(学校よりも)行きたい!」場所になってきているのだそうだ。
その場づくりの妙を、キャンプを参観しはじめてから早速、感じることができた。
私語やこどもが動くことがあっても叱責は全く飛ばない。といって場がカオスになっているのでもない。むしろ、ゆるやかに肩肘張らず寄り集っている、こどもとおとなの姿がそこにはあった。
レクリエーションやプログラムも、ともするとギチギチに組んでしまいそうなところを、初めのアイスブレイク的なものを終えたら後は個々にゆだねる(怪我などを防ぐために見守りはしつつ)という徹底ぶり。
こどもとおとなを信頼している場づくりの空気が最後まで漂っていて、個人的にとても居心地が良かった。
そんな心地よさを感じながら、ふと考えていた。多くの学校や塾、学童でも「私語」は禁止されるべきものとされているけれど、それはほんとうに当たり前なことなのだろうか?
根っこから考えれば、こどもが気になるモノの方へ動くことは、好奇心が生きている証拠だし、ふいに喋ることはコミュニケーションの自然な発露だ。
むしろそうした自発性を抑えつけられたほうが、こどもたちもその捌け口を求めたり、クラスメイトも自分と同じくらい抑えつけられていないと気が済まなくなったりしてしまって、一層荒れてしまうのではないだろうか。
私語も問題行動も、大人の場づくりのルール次第で作り上げられる脆弱なものなら、互いに生きやすいルールにした方が良いのではないだろうか(研究実践として考えるなら、これは社会構築主義の立場だ)。
そして可能なら、おとながルールを与えるのでなく、こどもたちが自らルールを創りあげていくのがいい。人間がルールを守るべきなのではない、ルールが人間を守るべきなのだ(とは、誰の言葉だったか)。
さて、キャンプ終了間近、この場をつくりあげている哲学が気になり、どのような考えで学童を運営されてらっしゃるのか、代表のかたにうかがってみた。
帰ってきた応え。「子どもが主体としてそこで尊重されているかどうか、それだけ」。
この哲学をすぐ言えるということ、そしてそれだけと言い切れることに、しびれてしまった。
その外にもとても良い出会いがあり、すごくありがたい一日となった。手探りながらも自分の想いに従って進むと、こんな一日も起こるのかと、不思議な想いのする今日だった。